甲州石割山 初冬のハイキング

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マユミの実

        甲州石割山ハイキング 2005年11月26~27

師走に入る直前、山中湖を見下ろす石割山に行ってきた。
麓の駐車場にはトイレもあり、とてもありがたい。
しかし、登りだしが直登階段。別のグループには、早々にここで足がツッてしまった人がいた。
気温が低いのだから、ちゃんとした準備体操が必要だよね。(じつはボクラもイイカゲン)
(上越線土合駅下り線ホーム、あのトンネル階段ほどのものではありませんが)
 
お山参りは、適当に、浮世離れの世界を探す、庶民の遊び。
江戸の富士講(もしくは浅間講)なんかも、こんな気分から行われていたんじゃなかろうか。
晩秋で大気が透き通り、富士山を拝むにはピッタリの予感あり。
 
 
 
 
 
石割山の山名由来の御神体は垂直に割れた巨岩で、8合目あたりにあった。(写真)
 
 
 
胎内くぐりができずに、途中で進退極まったらどうしよう、とふと思わせる狭さ。巨岩がそんな狭さに割れた偶然に不思議を感じる。
 
 
 
ボクもこの人たちも、ここをくぐろうとする誰でも、
むかし母の胎内で小さな魚の形から人間の姿に変成して生まれた記憶を持っている、
と思う。本日はその追体験。 
 
 
 
 山頂で山中湖を見下ろしながらおむすびを食べていたら、
同行のY氏が、思わぬことに金子光晴の詩のことを言い出した。
真ん前の富士を見ながら、
「なんだ。面白くもない、
   あらひざらした浴衣のやうな富士、
           その詩を思い出してしまう」
金子光晴がこの詩を書いたとき、わが国が狂気に酔いしれて行う戦争に向かって、自分と妻(森三千代)の力のかぎりを戦っていた。
一人息子を戦争に召し出されないために自覚的な非国民(エゴイスト)になることで
そして、今日の僕らの目の下の村(山中湖畔)に疎開し、
息子を松葉で燻し病人にしてまでして、徴兵検査を拒んでいた。
 
マユミの実と枯れ茅の尾根 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
家に帰ってから、金子光晴の詩にあたってみた。
ボクは、「エロじじい」などと、妙なもてはやされかたのこの老人が苦手で、
食わず嫌いに読まずにきてしまっていたのだが、
改めて読めば、そのことばの載る「冨士」と、(手にした本では)次に並んでいた「コットさん」は、
彼のことばが、最たる切実さでうたわれ、
(今、手元の本には載ってない「ごはん」も加えて)
『こういう、言葉に自由のある詩形もいいな、』と俳句や短歌との比較で思った。
 
仙石原にて(1)
 
夜は乙女峠あたりに泊まり、いつも通りに飲み過ぎ、翌日はやや二日酔い。
箱根で一番高い神山に大涌谷から登ろうとしたが、久しぶりに来てみると、
3年前から道が崩れてしまったままだそうで、登山道が閉鎖中。
硫黄ガスの濃度や風向きにより、以前からこの道の一時的閉鎖はあったが、
安全対策上からこの登山道の再開は今後行われないかもしれない。
また、ハイキングの心積もりにしてはひどく季節風の強い日であった。
 
 仙石原にて(2)
 帰り道の仙石原のススキが、朝の光線がよく、即、カメラでパチリ。
 
そのときの駐車場の前の食堂が「貧困旅行記」(つげよしはる)の気分にピタリ。(写真下)
 雰囲気に満ちた ? 食堂  
 
 
金時山
 
 end 
 
参考資料 1
 
金子光晴が嫌悪したのは、典型的にはこういう詩だったような気がする。 
 
日本 ヨイ 國、キヨイ 國。
世界ニ 一ツノ 神ノ國。
 
日本 ヨイ 國、強イ 國。
世界ニ カガヤク 神ノ國。
 
 「ヨイコドモ 下」1941(昭和16)年 文部省教科書 第19節中抜粋
 この詩の下に富士山を誇張した挿絵を載せている。
 
参考資料 2
 
茨木のり子が詩を書くようになってまもなく金子光晴の詩に出逢ったことを、後年、次のように書いている。

「、、、詩関係の本を漁るうち、金子光晴氏の詩に出逢った。これは戦前、戦中、戦後をいっぺんに探照灯のように照らしだしてる強烈なポエジーで、幻惑を覚えるほどだった。このように生きた日本人もいたのかという驚き。」(「はたちが敗戦」)

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