三鷹事件再審請求と関連図書

 目次に戻ります

亡霊のごとく現れた事件なれど、、、「三鷹事件」再審請求

概要:昭和24年「三鷹事件」、、、自白のみで10名を起訴
結果9名無罪、1名に
死刑判決、執行前に獄中病死。
この裁判も、冤罪の構造を色濃く内包する「戦後史の謎」の事件のひとつだ。
 
 
以下、産経新聞 2011年11月11日(金)0時25分配信(部分)  上掲写真:ウィキペディア「三鷹事件」より

三鷹事件、44年ぶりに再審請求 
元死刑囚長男が東京高裁に申し立て

 東京の旧国鉄中央線三鷹駅(現三鷹市)で昭和24年7月、無人の列車が暴走・脱線し6人が死亡した「三鷹事件」で死刑が確定し、収容中に45歳で病死した竹内景助元死刑囚の長男が10日、東京高裁に、44年ぶり2回目の再審請求を申し立てた
 
 事件は24年7月15日に発生。車庫から三鷹駅に進入してきた7両編成の無人電車が暴走して脱線し、6人が死亡、20人が重軽傷を負った。国鉄労働組合員10人が電車転覆致死罪で起訴されて9人が無罪となったが、竹内元死刑囚は30年に死刑が確定した。

 弁護団は、竹内元死刑囚が自白した方法では電車を動かすことができないとする鑑定書や、元同僚によるアリバイ証言などを「新証拠」として提出した。

      現在入手できる関連図書     


 竹内景助
元死刑囚の冤罪を確信し、最後まで援護を続けた弁護士布施辰治の伝記。

 本書第9章(最終章)がこの事件に充てられている
 また、朝鮮独立運動闘志を弁護し、等々、我が国近代の司法の歴史は、彼を抜きにしては語れない。

 著者はGHQの深い関与(事件の計画実行・政界と警察司法を裏から指揮)を、疑いうることとして語る。全員無罪という結末は最初から認められていなかった蓋然性を指摘し、竹内の自白の転々こそがそれを証明していると布施が直感していた、と 伝える。

大石進(著者)は布施辰治の孫。
発行 西田書店 2010.3.15. 定価 2300+税


 

 著者、清水豊は三鷹事件10名の被疑者中の最年少(18才)であった。
 自らの生い立ちにはじまり、事件当時の世情、容疑を掛けられてからの警察・検察の過酷かつ誘導的取り調べの体験を克明に綴る。

 なお、高裁、最高裁、共に(事実調べなく)書面審査のでおこなった。
 高裁では、竹内以外の無罪が確定。他方竹内にたいしては無期懲役を覆して死刑判決。
 最高裁は高裁判決を支持し、竹内にたいする死刑を確定した。高裁判決を支持した裁判官は最低過半数の15名中8名であった。
発行 西田書店 1988.7.31.第1刷  2011.3.15.第2刷
定価 1800+税
 

  補足 1  

以下、朝日新聞 2010年9月23日朝刊 上記産経新聞 2011年と異なる部分

1949年の三鷹事件
年内に再審請求 元死刑囚遺族が準備
       * すなわち、再審請求は予定するより一年余り遅れた。

(略) 三鷹事件では共産党員ら12人が電車転覆致死などの罪で起訴され、11人が無罪となったが、ただ一人非党員だった竹内被告だけに死刑が確定。

(略) 弁護団は再審に必要な新証拠として、竹内元死刑囚が事件当夜は電車区内の風呂に入っていたとする元上司らのアリバイ証言など約30点を提出する方針。
  朝日新聞 2010年  の記事において、起訴が12人とあるのは、電車転覆行為とは別に、裁判進行中に検察に不利な証言をしたことを脅迫するために、検察があらたに2人に「偽証罪 懲役3年6ヶ月」を求刑したことによる

  補足 2 

加賀乙彦の『死刑囚の記録』松本清張の『日本の黒い霧』

下記blogより抜粋
加賀乙彦の『死刑囚の記録』を読んで

加賀−死刑囚の記録(加賀は東京拘置所医務部技官、東京医科歯科大・犯罪心理研究室助教授等を経験している。初版1980年1月)
 
  同書には無実を訴える竹内景助と著者との実際の会話が記録されていて、
おれは弱い人間なんですね。弱いから人をすぐ信用してしまう。党だって労組だって、大勢でお前を全面的に信用するといわれれば、すっかり嬉しくなって信用してしまった。それがあやまちの元でしたけっきょく、党によって死刑にされたようなもんです。」
 三鷹事件の犯人が竹内ではありえないという根拠を示すのは難しいことではない。犯行時、竹内は電車区の風呂に入っており、少なくとも二人の目撃者がいるのだ。しかも彼は国鉄を解雇された後、アイスキャンデーや納豆を売って生計を立てており、次の就職先を見つけるために、知人の紹介により消防署の面接も受けていたという。

 要するに竹内は共産党に共感しながらも、熱心な活動家ではなかったということだ。そもそも彼には五人もの子供がいた。なによりもまず、生活のことを考えなければならない立場だ。それだけでも私利私欲の為ではない、政治的側面の強い事件を起こす当事者としては不適格ではなかろうか。また、非常に曖昧な目撃証言と竹内の自白以外、彼を犯人と断定する証拠らしい証拠は裁判においても提示されなかった。

松本清張の『日本の黒い霧』を読んで

 (にもかかわらず) 松本清張が三鷹事件を取り上げなかったのは何故か。それは彼が共産党の熱心な支持者だったからではないのだろうか。竹内の無罪を証明することは容易でも、事件について語ろうとすれば共産党にとって不利益になる竹内の言い分にも触れざるを得ない。また、竹内に単独犯行を自白するよう促した弁護士のなかには正木ひろという著名人が含まれているし、当時の新聞報道の ありかたなどについても言及する必要がある。三鷹事件を語るには避けれない複数のタブーが存在するのだ
 そういう意味においても竹内景助は不運な男だったという気がしてならない。事件から60年以上が経った現在でさえ、下山・松川事件に比べて関連書籍が少ないために彼の存在そのものが忘れ去られようとしているのだ。

  * 出来れば、上記アカウントで全文をご確認下さい。  

目次に戻ります