立山黒部アルペンルートが開通してしまったら俺たちの山はおしまいだ!
そういう気持ちで、60歳、50歳、30歳、25歳の老いも若きもが4人で出かけた。
今から45年前=1969年7月下旬のことだった。
山小屋素泊まり、食料の目方が荷物の半分を超えた。重たい灯油コンロ「マナスル」のノズル詰まりには悩まされたが、仕掛けが単純で今も使えるので、当blogで去年着火の具合をお見せしたことがある。只今は防災用備品として休眠中。
上野駅からの夜行を使って富山側から入り、まずは剱沢小屋一泊。
このときの剱沢から仰ぐ剱岳の巨大な岩の偉容に圧倒された。
劔岳に空荷で登り、再び剱沢小屋に泊る。
(右写真下辺右隅にテントが2張り写るが、このフレーム外にあと20張りほどあった。いまテント場はちょうどこのカメラ位置あたりに移動し、元の場所は登山研修所になっている。変わらないのは岩山の姿だ。) 翌日は立山三山のピークを辿って一ノ越を経由し、下写真のみくりが池温泉に戻った。あとの縦走用の食料をこの温泉小屋にデポしていたからである。
宿泊者には地元の小学校高学年の一団がいて、浴場などは子供の声が高く反響し、実に賑やかであった。 下写真は山行後半コースの食料を再び担ぎ「いざ出発」という早朝の1枚。右の人が肩から提げているのは渓流竿。ボクにイワナ釣りを教えてくれる為に持ってきた。ボクも彼に三ノ輪の竿屋で見立てて貰い直前に買ったばかり、竹製2間のしごく軽量な竿を持ってきた。
この建物はその後間もなく改築された。
4人の顔にマスキングしなかったが問題ないだろう。
とうに2人が鬼籍。残りの2人も間もなく鬼籍。45年前の写真だ。
4人ともキスリングを背負い、1人が背負子(ホープ社ジュラルミン製)も使用。
印画紙の裏にフジカラー・ラボのプリント年が鮮明に押してある。
スキャンのさい退色復元をかけたら色彩が回復した。 一ノ越を経由、浄土山にも登ったあと、龍王岳あたりからガスが湧き出し全く眺望が得られないままに、霧雨模様の小寒いなかを鬼岳・ザラ峠・五色ヶ原山荘に進む。
コースタイム通りに足が運ばず、昼食は山荘手前の何もないザラ峠で立ったままとったような記憶がある。
なかなか到着できなかった五色ヶ原山荘が、濃い霧の中から現れた。その狭い玄関先で小屋の主人と雑談しながら休憩した。余り確かではないが、このときは熱いお茶を出して貰い休憩料を少額払ったと思う。
せっかくの五色ヶ原を、濃霧がひどくて花も景色も何も見ないままに歩く。高山植物は今が見頃のはず、ボクラは限りなくもったいないことをしているのだった。足場の良くない急坂の中程にある刈安峠で小休止しただけで、暗くなりかけた平だいら
ノ小屋に下り、素泊りで2泊した。
2泊目の晩のおかずにした釣果のイワナ5匹はサラダオイルで焼いて食べたが、小ぶりで少し物足りなかった。釣りながら余り小さいのは逃がしたが、掛かったのが2人合わせても10匹あったかどうか?
釣っている最中に、ワラジ穿きの単独行の男性が下流から上ってきて、上流に抜けて行った。彼が持つのは我々の様な和竿ではなかった。片腕の倍の長さ程度しかないごく短いグラスロッド竿を使い、短く太い糸を鞭のように振って疑似餌をポイントにピシピシと叩き込む。我々の様にまだるっこい餌の付け替えをやらないことがまず驚きだ。片手には釣果の大型数匹をクマザサに刺し連ねたイワナが握られていた。
いま自分が習っている方法は、もう時代遅れなのかもしれなかった。けれど、そんなスピードであらゆるイワナの住処から大型イワナがポンポン引っこ抜かれては、イワナ一族の未来が維持できなくなるかも、とも思った。 このとき、4人中に1人だけ、平ノ小屋には一泊しただけでイワナの顔を見ずに帰った者がいた。その訳は「沖縄返還闘争」応援で沖縄に行く船に間に合わせるためであった。当時の沖縄はアメリカの占領地でパスポートが必要だった。沖縄からはヴェトナムへ直接渡洋のB52という真っ黒く巨大な爆撃機が編隊を組んで出撃する毎日であった。日本人には沖縄返還闘争もヴェトナム戦争反対もヒトゴトではなかったのだ。
残った3人のうちの1人はイワナ釣りには加わらなかった。
趣味でやる釣りは「無用の殺生」なのでやらないよ、ということで、彼はごろ寝と散策で休養した。でもわざわざ東沢まで出かけたボクラの釣果をけなさず、イワナに箸は付けてくれた。
みんなそれぞれ自分の考えをハッキリと持ち、相手に伝えて、真面目だったのだ。
最終日は黒部湖岸をクロヨンダムまで歩き、カンデントンネルをトロリーで抜けたが感電??しないで大町に出られた。
観光客にはここが行き止まりで、堰堤上もまだ人はまばらだった。
ボクは木崎湖畔でやっている大学サークルの合宿ゼミを覗くために2人と別れた。チャチを入れて後輩たちの勉強の邪魔をし、酒だけは二夜愉快に呑んで、夜行と合わせて10日もかかって自宅に帰った。
今回の昔話は、ボクの独身最後の夏の思い出だ。青春は一瞬で駆け抜ける幻のようなもの。


正面が立山で、ちょうど立山トンネルが開削中であった。美女平に上がるケーブルとゴンドラ、室堂までのバス専用道路は既に開通していた。
自宅を出るときにカメラに装填して撮りかけだったスライドフィルムはAGFAで、今日では退色著しく、退色復元しても効果がなかった。
2本目からはFUJIのスライドで、色調はどうやらこうやら、初めのほうの4枚ご覧の通りで、半世紀の結果がここに出ている。
ボクのフィルム管理はビスケットの空き缶に入れておくだけなので、どの会社にもモンクがつけられる筋合いではないだろうが、45年後の結果に歴然たる差が出ているのは面白いし、多少の考察にも値する。
初出は当方blog 2014/7/15記事。 本記事では、かなりの字数を加筆し、写真も追加した。 |