MochiのLogcabin 葦立文庫版 山と旅のエッセイ集
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第9編 わが青春の夏山
変色してしまった写真を懐かしく見る
up road 2014/8/27
立山黒部アルペンルートが開通してしまったら俺たちの山はおしまいだ! そういう気持ちで、60歳、50歳、30歳、25歳の老いも若きもが4人で出かけた。 今から45年前=1969年7月下旬のことだった。 翌日は立山三山のピークを辿って一ノ越を経由し、下写真のみくりが池温泉に戻った。あとの縦走用の食料をこの温泉小屋にデポしていたからである。 下写真は山行後半コースの食料を再び担ぎ「いざ出発」という早朝の1枚。右の人が肩から提げているのは渓流竿。ボクにイワナ釣りを教えてくれる為に持ってきた。ボクも彼に三ノ輪の竿屋で見立てて貰い直前に買ったばかり、竹製2間のしごく軽量な竿を持ってきた。 この建物はその後間もなく改築された。 一ノ越を経由、浄土山にも登ったあと、龍王岳あたりからガスが湧き出し全く眺望が得られないままに、霧雨模様の小寒いなかを鬼岳・ザラ峠・五色ヶ原山荘に進む。 このとき、4人中に1人だけ、平ノ小屋には一泊しただけでイワナの顔を見ずに帰った者がいた。その訳は「沖縄返還闘争」応援で沖縄に行く船に間に合わせるためであった。当時の沖縄はアメリカの占領地でパスポートが必要だった。沖縄からはヴェトナムへ直接渡洋のB52という真っ黒く巨大な爆撃機が編隊を組んで出撃する毎日であった。日本人には沖縄返還闘争もヴェトナム戦争反対もヒトゴトではなかったのだ。
最終日は黒部湖岸をクロヨンダムまで歩き、カンデントンネルをトロリーで抜けたが感電??しないで大町に出られた。 ラジウス・マナスル(灯油使用のコンロ) 正面が立山で、ちょうど立山トンネルが開削中であった。美女平に上がるケーブルとゴンドラ、室堂までのバス専用道路は既に開通していた。
自宅を出るときにカメラに装填して撮りかけだったスライドフィルムはAGFAで、今日では退色著しく、退色復元しても効果がなかった。
2本目からはFUJIのスライドで、色調はどうやらこうやら、初めのほうの4枚ご覧の通りで、半世紀の結果がここに出ている。 ボクのフィルム管理はビスケットの空き缶に入れておくだけなので、どの会社にもモンクがつけられる筋合いではないだろうが、45年後の結果に歴然たる差が出ているのは面白いし、多少の考察にも値する。 初出は当方blog 2014/7/15記事。 本記事では、かなりの字数を加筆し、写真も追加した。 |
費用と日程 当時使用の登山手帳があるので要点抽出しておきます。 山行費用の一部(数字単位は円) |
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