ボクの家はキャベツ畑のヨコの急坂を登り切って、この3軒の家の裏側にある。
だいぶ前にうちのネコが数日行方不明になったのは、右側の鉄骨ハウスの半地下倉庫に閉じこめられたためだった。
キャベツ畑は、長ネギと交互に植え替え、ときどき麦類の種を蒔いて青草のうちに豆トラで鋤き込む。今はキャベツの収穫を済ませ、外葉や出来損ない株を破砕したばかり。見ているとほとんど農薬を撒かずに育てている。
* ちょうど1ヶ月後には年末~正月出荷の関東ネギ(泥ネギ)の苗が植えられた。冬の鍋ものやすき焼きに欠かせないあの太い一本ネギで、松戸農協ブランドとしては「矢切の渡しネギ」で出回る。
(撮影) 右2011/7/31 下、同年12/21
駅までは、さっさと歩いたとき、行きが15分、帰りが20分。帰りが上り坂になるため、酩酊しての帰宅に困難を伴うことが、昔はたまにあったような、、、なかったような、、、。
この坂を近年まで自転車をこいだままで登れたが、いまもできるかどうかは分からない。
とりあえず、その駅「馬橋」(立派なJR常磐線、されど快速が停まらず)の周りをご案内してみよう。
大通り(国道6号)を渡っていよいよ駅に近づくと月極駐車場。最近はガランとしている。
空き家が更地になると、そのうち駐車場になってしまう、そういうことが普遍的現象になってきた。すなわち駐車場がもはや完全な供給過剰なのである。
駅はここからわずか5分というところにある。
駐車場の向こうの林(中央=竹藪、左=大公孫樹)は寺院(廃寺)。このあと続いて紹介。
大通りと旧道(水戸街道)を結ぶ路地。その距離250m程度。駅に行く人はみなここを通る。
手前「おでん 鳥利」は夜になれば赤提灯を出す。その隣が寿司屋だったが、20年も前に店を閉めたまま。一番向こう角2階に最期の入居者がいたが、10年以上前に灯りが点かなくなった。朽ち果てるまで取り壊さないつもりだろうか?
すぐに水戸街道の旧道(この黄色のセンターラインのある道、ムリヤリにバスが入る)に突き当たるので右折すると、これまた店を閉じたままのバイク屋がある。
10年以上前に店を大通りに移してしまったこのバイク屋脇の小路奥に見えるのがさっきの公孫樹である。
まずは路地際に立つ石柱に注目。ウン、、、よっぽど見ないと見えない、、、が、由緒正しい道標みちしるべが2本立っている(いた?)
新四国 五十六番 豫??山寺 模 (台座に村内講中)
背側には建立年が読める。
文化五年 辰 五月吉日
すなわち1808年。
折れた方には南無阿弥陀仏 と彫られているが本尊が阿弥陀如来かどうかは分からない。
旧道から150Mばかり奥に「豫??山寺 模」という札所がある。
山門がいつも閉ざされ、門柱にうっすらと札所の看板が掛かっていたらしい痕跡を見る。もうお札を配ったり、本尊を拝ませるようなことなどはしてないように見受けられる。
いつきてもひっそりとしている。
大公孫樹だけが堂々と繁る。
新四国 五十六番 豫??山寺 模
を推測すれば、豫州泰山寺(愛媛県今治市、四国遍路五十六番札所) であろうか。
師走に見た黄葉(2006.12.12.)
この日は、しとしとと降る時雨を浴びて葉を散らす様子を門の所から見入った。閉じたままの門を開いて境内に入ったことは一度もない。
少し駅にすすめば下の写真。奥からシャッター(常に閉)の右がホッカ弁(オレンジ色の横看板)、細々と20年ほど営業、夕時よりも宵を過ぎてから車を駐めて揚げ物が出来るのを待つ 客の姿を多く見る。
次もシャッターの降りた文具店。少し昔、ボクがよく使うB5タテ版という変形の原稿用紙を買いに入ったところ、主人が「良かったらこれも使ってください」と郵便番号欄5桁の封筒をドサッとくれた。その後じきに店を閉め、あれから10年にはなるかも。主人が高齢になったためで、閉める間際には釣り銭の計算さえもうまくは出来かねるようすに見えた。5桁の封筒は今も使い切れずに持っている。「ゼブラボールペン」と縦に書かれた看板がいまも掛けられている。
小さな不動産屋は営業中。
左隣がボクが越して来る前からある小さなパチンコ屋。ボクはこういう類の遊びをして勝てたためしがないから入らない。が、この店は30年以上の時間を地元で愛されてきたことになる。
いよいよ駅に左折するT字路前にきた。信号もない。バスも駅に入らないでこのまま直進してしまう。
赤いテントのアンビル青果店は帰りがけに、ごく希に立ち寄る。夕方、夕食に欠ける食材を臨時に調達するためで、大根やネギを一本という単位で買う。ぼくは油揚げと合わせる芋がら煮が好きなので、秋に乾燥したそれが出ていると山の神の指示がなくても買うことがある。
通りが突き当たると右に折れる。その道をずっと進んで大通りを越えたところからが桜並木。(ボクの今年4月のYahooブログを見てください。ことしはさくら祭りが中止になって、安っぽいピンク色のぼんぼりがズラッと下がったりしなかったので、心ゆくまで花を楽しんだ)
この遠い突き当たりに見える屋根が万満寺まんまんじ。古刹であるが、近くを通る常磐線の汽車の火の粉を被り本堂が焼けて(これは境内の説明板による)、長く本堂が再建されなかった。15年ばかり前?にその願いがかなった。
有名なのが山門にある「仁王の股くぐり」。ピンピンコロリのご利益で古くから尊崇されてきた。ぼくの父もくぐったので、2,3年してその通りになった。母は当時体型がくぐるに難あり、父を真似なかったので長寿である。今の母(90歳)は「どうしてこんなに長生きしてしまったのか」が口癖。
カメラ(ケータイ)をちょっと左に振るとコンビニがある。ここはぼくがこの街に来たとき、店内半分に書籍、半分に文房具を商っていた。ワープロのインクリボン対応用紙をA4,B5ともここで購入した。じきに文房具売り場は消え、本類だけ並べて10年ほどが過ぎ、とうとう今のごとくコンビニになった。それから7,8年はたったような気がする。
真正面(右側の道路)奥が馬橋駅。ここを昔は路線バスが入り、一つは新京成の常磐平駅、ひとつは同じJRの北小金駅を結んでいた。こんなに狭いのに商店の軒を押しのけながらよくもバスが入ったものだ。このバス路線は馬橋・北小金間に武蔵野線と交差する新松戸駅ができて間もなく、利用者激減のため廃止された。武蔵野線は開業してからそろそろ40年にもなろうか、この地域一帯(だけでは当然ないわけだが)の人の流れに、じんわりと大きな影響を与えた。
再開発もされぬママに街が老いてゆき、旧道の駅入り口角の一等地にある「信濃屋」もこうなった。
いまは月極の自転車10台ほどを店内に預かるだけ。呉服の反物や和装の小物を商い由緒を感じる店であったが、歳々寂れ、最後は晒し木綿だけが棚に置かれた。これは万満寺先に昔からの産院があるので「戌いぬの帯」の需要があったのではないだろうか。戌の日、この店で晒しを一反買うと万満寺で安産の祈祷を受けた腹帯を巻いて、やがて月満ちると向かいの産院で犬の出産のように無事に産声うぶごえを聞いた(のであろう)。
*
{広辞苑} 岩田帯;(斎肌)帯の意、、、、胎児の保護のために巻く白布。5ヶ月目の戌の日からするものとされる。
* 全ショット、カメラ付きケータイを使用 。 日付のある二枚を除き、撮影は2011.6.23.
付録
最後の写真の「信濃屋」さん、奥で「さらし」を細々ですが、現在も売っていましたので訂正です。今の人は安産祈願にこういうものをつかわないかもしれませんね。ボクの母親は昔は上野に住んでいて、妻が長女を懐妊したとき、都電の終点にある「水天宮」(安産祈願で知られていた)までご祈祷を受けに行って、この「さらし」の戌いぬ帯を用意してくれました。
新四国 五十六番札所跡(撮影日不明、2007年か)
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(後編を9月9日公開しました)