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シリーズ 現代の
うたよみびと その 1
小高 賢 up road 2014.4.20.当方のblog、2014年の数回分を編集しています。← 葉牡丹の花
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blog1回目 2014年2月11日 歌人の小高賢さん、きょう突然の訃報
聞けば、今朝、仕事場で1人で亡くなっているところを発見されたそうで、司法解剖がされたとのこと。それで死因ははっきりすると思うが、要するに「過労」に起因するものと思う。「特定秘密保護法」反対のデモにも参加されていたのだと、ついさっきの電話でボクの先生から聞かされた。 ![]() 『怪鳥けちょう の尾』にはこんな9首がある。(掲出順不同) ・ 泳ぐより翔ぶより水になじみ浮き真鴨は生いのち たくみに衡る ・ 二度三度会議席上売れざるを判決とする販売部長 ・ 夏の雲ちぎれて迅し死に急ぐ若き東国武士を思えり ・ 本当の孤りは母を喪いて絆解かれてのちにくるらん ・ 湯豆腐を好みたる亡父勲七等陸軍伍長のごとき一生 ・ 「一病を息災とせん」死の匂い濃き同僚の手紙の末尾 ・ 陽は夏の力あれどもフジアザミくさむらに頭ず を抜きて死にたる ・ いますこし視線を下げん漱石の享年越えてすでに一年 小高さんは漱石より20年長く生きた ・ 「戦争をしらない人間ひと は、半分は子供である」と大岡昇平 ![]() 『本所 両国』 にはこんな15首がある。(掲出順不同) ・ 大船映画「野菊の墓」の思い出にどこか邪魔する左千夫の顔は ・ 三月の霧雨に耐え声もなく葬儀待ちたる黒きコウモリ ・ 同僚とも なくてわれ生きてありわれが逝き同僚とも 在ることもありにしものを ・ 身のめぐり死者ふやしつつ死者となるまでをくるしみ励む一生ひとよか ・ 小津映画のような一行記憶せり「視点はひくく視線はたかく」 ・ いずこにも秋水の名は見つからぬホテルの部屋の観光ガイド 秋水=幸徳秋水 ・ 秋水の墓前にしばしたたずめば藪蚊がわれの腕を攻めくる ・数字に頼る企業ではなく理想などたたかわせたき照れくさくとも ・ 同僚を見る眼のなきとみずからをつくづく笑うほかなし今日は ![]() ・ 臓器移植にいのち継がるる世の詩歌いかに生きるかなどは問わざり ・ 否ノン という意志を捨てれば岸上も逢いにけむかも高度成長 岸上=岸上大作 ・ 声ひそめ伏し眼がちなる岸上の母を憶いぬ戦後史の寡婦 −−− 折りにふれて『窪田空穂全集』をひらく ・ 妻逝きて妻のいもうとめとりたる空穂自伝によろこびはなし ・ ぎこちなくネクタイを締め出ずる子のわれなくしたる朝の緊張 ・ 給料の語源知らざる子の塩はひとつきのちの結晶を待つ ← ボクが持つ『本所 両国』の内表紙に小高さんが書いてくれたサイン -- とりあえず、本日は完 近日加筆予定 -- |
blog2回目 2014年2月13日 続・ 小高賢さん追悼 ![]() 朝日新聞の今日の朝刊に訃報が載っていた。 2月12日(水)朝刊(部分) 他紙も同様だったと思うので、短歌に関心のある方は気付かれたのではないだろうか。 当方、昨夜のblogには彼の歌集二冊を掲出したので、今夜は彼が書いた評伝を二冊あげておきたい。 ![]() 五柳書院 1998.5 (五柳叢書)
戦争中に戦争には行かず(年齢のこと等の条件もあるだろうが)、戦意高揚の歌を詠んだ文学者(歌人を含む)は多いが、前線に出て銃を持って戦った文学者は余り多くない。もしくは戦死した。そのあたりを小高さんは「歌人の運と不運」という章(48p〜)で書いている。 ・ つき放されし貨車が夕光ゆふかげ に走りつつ寂しきまでにとどまらずけり ・ いろ黒き蟻集まりて落蝉おちぜみ を晩夏の庭に努力して運ぶ ・ 徐々徐々にこころになりしおもひ一つ自然在しぜんざい なる平和はあらず ・ 戸を引けばすなはち待ちしもののごと辷すべ り入り来きぬ光といふは ・ ゆらゆらに心恐れて幾たびか憲法九条読む病む妻の側わき 宮柊二というスケールの大きな歌人の全体像については、ぜひ本書を読んでみて下さい。 ![]() トランスビュー 2009.4 すでに日付が変わる時間がきましたので、上田三四二の名歌を一首だけ紹介して、執筆止めます。 補足 2月13日18:00 下は、上掲『この一身は努めたり』の表紙帯の後ページ面をコピー ![]() 本書「あとがき」から抜いた短いコメントだが、小高さんが上田の何に注目していたかがよくわかる。 上田三四二うえだみよじの歌 ・ 年代記に死ぬるほどの恋ひとつありその周辺はわづか明るし ・ つきつめてない願ふ朝ぞ昨日きぞ の雨に濡れてつめたき靴はきゐたり ・ うつくしきものは匂ひをともなひて晴着のをとめ街上がいじょう を過ぐ ・ たすからぬ病と知りしひと夜経てわれよりも妻の十年ととせ 老いたり ・ 白木蓮のひと木こぞりて花咲くは去年こぞ のごとくにて去年よりかなし ・ 腹水の腹を診て部屋をいづるとき白髯はくぜん の老は片手にをがむ 上田三四二の本業は医師 ・ 乳房はふたつ尖りてたらちねの性さが のつね哺ふくまれんことをうながす ・ 三十年わが名よぶ母のこゑありきそのこゑきかぬのちの二十年 ・ 世のひとにあらざるわれが世の些事さじ をもちて日々通ふ妻をただ待つ 晩年病床の歌 ・ 遺志により葬儀はこれを行はずふかくおもひていまだも言はず |
今日は歌人・小高賢の最後の歌のことです。 「短歌研究 2月号」20首中6首 ・ 人の死は酒席にまぎれ壁に掲ぐ献立表のひとつに終わる ・ 夕闇の葬りにふれて涙せど一時間経て鳥の腿噛む ・ 死が序列狂わしめたる席次なり三人越えというリアリズム ・ 消えゆくは大正世代のみならず堕ちゆくはやさ競うがごとし ・ 死ぬまでの時間をはかるここちせり全歌集あと100ページほど ・ 新しき手帖にうめる生活の間仕切りに似る診察予約 「現代短歌 3月号」13首中7首 ・ 耳遠くなりたる性は長命という説のあり 武川忠一 ・ よきものの七十歳ななじゅう 代という歌をにわかに信ぜず信じたくもあり ・ 警報のくらき灯かげで書きつげる明治の気骨見す『冬木原』 ・ 老いてなおこころ奪わる年下の死に遇う哀しさうたう哀しさ ・ 晩年の空穂の日々は生のすべ尽くしたりけん老白梅か ・ 「死はやすし」と洩らす心地の訪いくるや冬陽差しこむ日の『去年の雪』 ・ 不審死という最期あり引き出しを改めらるる焉おわ りはかなし 先生の手紙を開封し、同封のコピーを開いた瞬間にボクは気付きました。 blog4回目 2014年2月21日(その2 補足記事として) 小高賢さんの最後の歌を読んでもう一つ気付かされたことがある。彼は国会に何度も抗議しに出かけていた。 「僕は講談社の中で岩波書店をやってるんだ」と言っていた。
新書が教養から実用へ傾く流れは止められず、学術色の濃い「選書メチエ」を創刊
したのだろう。ただ、学術分野は岩波が強く、若い頃は執筆を依頼した学者から門前払いにあったともきいた。 こういう流れの中で昨日の小高賢さん最後の歌を詠むと、、、 ・ 周縁にまず回り込みうしろより足音ひそめ来たる改憲 ボクも昨日の国会中継を聞いていると、国の形が次々に崩れていくのを感じてしまう。 |
追加 2014.3.8 小高賢さん、元気に旅路を、、、本日(3/8・土)朝日新聞夕刊「惜別」欄
惜別−−歌人/編集者 小高賢/鷲尾賢也さん ・ ハンタイを届かせるため小さじほど傷口に塗る塩をもたねば ・ ひっそりと隠れて生きる希のぞみ から恥ずかしきほど遠ざかりたり 追加 2014.4.21 『老いの歌』のこと |
追加 2014.8.26 『現代短歌作法』のこと 新書館 2006.12.25 第1刷 先日書架を何となく眺めていて発見。書架の場所が3箇所(居間・旧書斎・新書斎に分散。あとは少量ではあるが、結婚して出て行った娘と今も共用の書架がもう1箇所、2fの廊下にも)にも。書籍類がこのように分散してしまっていては不便このうえないが、このゴタゴタは当家における一定のいきさつを踏まえていて、配架のやり直しなど自分の力量では不可能。この本の所在が最初から分かっていれば、ここでは歌集『本所・両国』の前に置くべきものであった。 目次での「3,はやわかり短歌史 @」と「4,はやわかり短歌史 A」とはは、所属結社の主催者・馬場あき子が、作家活動の途中から王朝和歌にも関心を回帰し、作風の幅を広げてきたたことに軽くは触れつつ、主要には近代短歌から現代短歌への変遷を、結社の傾向も、結社外勢力台頭も読み解こうとする。 彼は、年齢的に見て遅れて短歌の世界に入ってきた。経歴で言えば青年期を過ぎた社会人としてスタートした。 (この章も)雑駁ですが、今日はここまで。 追加 2014.9.19 再論 『現代短歌作法』のこと 本書中央に配された「3,はやわかり短歌史 @」と「4,はやわかり短歌史 A」の再読を進めた。 ・ 本書目次 3,はやわかり短歌史 @ プロレタリア短歌と新興短歌芸術運動 途中126p〜 もうひとつ、ターニング・ポイントのような企画があった。一九二六(大正十五)年、雑誌「改造」七月号の「短歌は滅亡せざるか」という特集である。回答者は斎藤茂吉、佐藤春夫、釈迢空、芥川龍之介、古泉千樫、北原白秋の六人であった。マイクロフィルムになっている「改造」を読んでみると、なぜこの時期に短歌を特集したか、不思議な気分になる。「改造」はいまでいえば、「世界」「中央公論」「論座」といった総合雑誌であって、誌面のはとんどが政治、社会経済的な論説で占められているからだ。 一九三一(昭和六)年、満州事変、一九三二(昭和七)年、上海事変、満州国建国、あるいは五・一五事件、一九三三(昭和八)年、国際連盟脱退、一九三五(昭和十)年、天皇機関説が問題になり、そして一九三六(昭和十一)年には、二・二六事件がおこる。時代は急速に軍事体制に再編成されてゆく。年表でみるかぎり雪崩をうって日本がファッショ国家に変貌しているように思えてならない。しかし、一つの方向を日本人全員が一体となって志向していたわけではないだろう。多くの力のせめぎあいの中から、結果として、一九四一(昭和十六)年の太平洋戦争ということになるのだ。ただ、同時代人でない私たちの眼でみれば、そこに何か歴史の必然を感じてし 新しき国興おこるさまをラヂオ伝ふ亡ほろぶるよりもあはれなるかな (土屋文明『山谷集』) 一首目は先にあげた満州国建国に際して詠まれている。下旬の痛烈な批評。時代認識の深度を読み手は感じる。二、三首目は、東京という題詠のもとで詠まれた作品であるが、即物的なタッチが、社会を、人々を動かしてゆく力を見事に表出している。「機械力専制」「戦争機械化」といった造語や、破調をおそれない韻律が相侯って、急速に変貌してゆく時代の推移が、三十一音に定着させられている。プロレタリア短歌、モダニズム短歌が獲得できなかった側面であった。「アララギ」の主張する写生が、文明の頼まれな描写力によって花開いた実例である。これらの作品を読むと、先の歴史的事実がどんな状況下で起きているか、いまの私たちにもはっきり見えるような気がしてくる。 ・ 本書目次 4,はやわかり短歌史 A 戦争 冒頭146p〜 一九四一(昭和十六)年十二月八日、突如、アメリカ、イギリスなどと戦端を開いたことをラジオが高らかに告げた。十一月、アメリカ国務長官から中国からの撤退をもとめられたいわゆる「ハル・ノート」が提示された。実質的に日米交渉は決裂へ向かっていたのであるが、突如、山本五十六率いる連合艦隊がハワイ真珠湾を奇襲、大戦果をあげたというのである。(中略)緒戦の日本軍の躍進ぶりは目覚しいものがあり、日本中が勝利に沸きあがった。
作品の一部を紹介してみたが、この他、川田順、与謝野晶子、尾山篤二郎、相馬御風、金子薫園、松村英一、半田良平、前田夕暮などが参加している。あえて彼らの作品を引かなかったのは、引用したものといずれも大同小異だからである。つまりパターン化、類型化がはなはだしい。作者名を入れ替えてもあまり変わらない。ほとんど見分けがつかない。それはど、没個性なのである。(中略)
つづけざま迫撃砲弾落つるなか右翼からおこる「捧銃」ささげつゝのこゑ 現場だけが体験しうる迫真的場面、あるいは亡き戦友を送る風景、先に挙げた大家たちの開戦の作品と較べようもないほど迫力がある。宮柊二はその代表だが、その他にも戦地の体験が短歌となって結晶していた例は多い。なかでも、「アララギ」の「其の二」欄は注目すべき作品群であった。 前衛短歌の出現 168p〜 それまで戦後短歌は、あるいは歌人たちは、戦争の後遺症もあって自分の詩型にどこか後ろめたい感情を隠すことができなかった。また、詩人、小説家、評論家といった他ジャンルの発言に理論的に応じることができていたとはいいがたかった。ところが、「方法論争」で大岡信と塚本邦雄が、「定型論争」で吉本隆明と岡井隆が、「様式論争」で嶋岡晨あきらと寺山修司が、真っ向から論戦し、一歩も譲らない議論が展開されるなど、それまでの短歌の理論的脆弱さが一掃されたような印象を歌壇に与えた。短歌もけっこう頑張っているというイメージが生まれたのである。それらからも見えてく.るように、前衛短歌運動は従来の結社が新人を用意し、それを歌壇に送り込む構造を壊してしまったのである。これ以後、結社を横断する活動が多くなってゆく。その結節点でつねに活躍を見せるのが岡井隆である。 あわあわと今湧いている感情をただ愛とのみ言い切るべしや
(岡井隆『斉唱』) 第一歌集の清潔な抒情は「アララギ」の正統な継承者というべき作風を示している。しかし、第二歌集『土地よ、痛みを負え』になると、主題意識やモチーフが拡大し、喩の手法による世界の拡大が試みられる。 政治状況を詠むにしろ、さまざまなイメージが駆使されている。最初の三首は「ナショナリストの生誕」という連作のもので、自分の生誕とアジア、とりわけ中国大陸の推移が重ねられている。後半の二首は、安保闘争を詠んだものである。性と政治が重ね合わされている。 続いては、 総目次に戻る 本棚目次に戻る このページの先頭に戻る |