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14

 シリーズ 現代 うたよみびと  その 1        

 小高 賢     up road 2014.4.20.

当方のblog、2014年の数回分を編集しています。


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  blog1回目 2014年2月11日

   歌人の小高賢さん、きょう突然の訃報

 小高さんは、ボクと同じ1944年生まれ。
  前回、短歌の勉強会のことを書いたが、その会でも二度お呼びしてみんなで歌評をしてもらったことがある。馬場あき子さんの私生活の断片も聞かせてもらった。
 また、ある夏の結社の集ので、彼が真後ろの席から「そろそろ歌集を出しませんか」と話を向けてくれたこともある。
 ボクはこの結社(かりん=岩田弘・馬場あき子主催)の主要歌人の中では最も共感の持てる歌人の1人だったので、近しい感情をもって彼のかりん月例出詠歌に目配りを欠かさなかったし、著作もかなり読んできた。

 聞けば、今朝、仕事場で1人で亡くなっているところを発見されたそうで、司法解剖がされたとのこと。それで死因ははっきりすると思うが、要するに「過労」に起因するものと思う。「特定秘密保護法」反対のデモにも参加されていたのだと、ついさっきの電話でボクの先生から聞かされた。
 哀悼の気持ちに変えて、彼のたくさんの著作中から、ボクが実際に読んだ作品を次に書きぬくことにしよう。

 怪鳥の尾  小高賢歌集                    砂子屋書房 1996.12 (かりん叢書)
 宮柊二とその時代                        五柳書院 1998.5 (五柳叢書)
 本所両国 小高賢歌集                      雁書館 2000.6 (かりん叢書)
 この一身は努めたり 上田三四二の生と文学  トランスビュー 2009.4
 老いの歌−−−新しく生きる時間へ              岩波新書 2011.8

怪鳥の尾
  『怪鳥けちょう の尾』にはこんな9首がある。(掲出順不同)

・ 泳ぐより翔ぶより水になじみ浮き真鴨は生いのち たくみに衡る
・ 二度三度会議席上売れざるを判決とする販売部長

・ 夏の雲ちぎれて迅し死に急ぐ若き東国武士を思えり

・ 本当の孤りは母を喪いて絆解かれてのちにくるらん
 
・ 湯豆腐を好みたる亡父勲七等陸軍伍長のごとき一生
 
・ 「一病を息災とせん」死の匂い濃き同僚の手紙の末尾
 
・ 陽は夏の力あれどもフジアザミくさむらに頭 を抜きて死にたる

・ いますこし視線を下げん漱石の享年越えてすでに一年   
                          小高さんは漱石より20年長く生きた

・ 「戦争をしらない人間ひと は、半分は子供である」と大岡昇平 





本所 両国
『本所 両国』
にはこんな15首がある。(掲出順不同)

・ 大船映画「野菊の墓」の思い出にどこか邪魔する左千夫の顔は

・ 三月の霧雨に耐え声もなく葬儀待ちたる黒きコウモリ

・ 同僚とも なくてわれ生きてありわれが逝き同僚とも 在ることもありにしものを

・ 身のめぐり死者ふやしつつ死者となるまでをくるしみ励む一生ひとよ

・ 小津映画のような一行記憶せり「視点はひくく視線はたかく」

・ いずこにも秋水の名は見つからぬホテルの部屋の観光ガイド                            秋水=幸徳秋水

・ 秋水の墓前にしばしたたずめば藪蚊がわれの腕を攻めくる

・数字に頼る企業ではなく理想などたたかわせたき照れくさくとも

・ 同僚を見る眼のなきとみずからをつくづく笑うほかなし今日は
小高賢サイン
・ 臓器移植にいのち継がるる世の詩歌いかに生きるかなどは問わざり

・ 否ノン という意志を捨てれば岸上も逢いにけむかも高度成長
                                                          岸上=岸上大作   

・ 声ひそめ伏し眼がちなる岸上の母を憶いぬ戦後史の寡婦   

      −−− 折りにふれて『窪田空穂全集』をひらく
・ 妻逝きて妻のいもうとめとりたる空穂自伝によろこびはなし

・ ぎこちなくネクタイを締め出ずる子のわれなくしたる朝の緊張

・ 給料の語源知らざる子の塩はひとつきのちの結晶を待つ



← ボクが持つ『本所 両国』の内表紙に小高さんが書いてくれたサイン


               -- とりあえず、本日は完 近日加筆予定 --



  blog2回目 2014年2月13日

   続・ 小高賢さん追悼
朝日、訃報
朝日新聞の今日の朝刊に訃報が載っていた。
           2月12日(水)朝刊(部分)

他紙も同様だったと思うので、短歌に関心のある方は気付かれたのではないだろうか。






 当方、昨夜のblogには彼の歌集二冊を掲出したので、今夜は彼が書いた評伝を二冊あげておきたい。



宮 柊二
  五柳書院 1998.5 (五柳叢書)

  戦争中に戦争には行かず(年齢のこと等の条件もあるだろうが)、戦意高揚の歌を詠んだ文学者(歌人を含む)は多いが、前線に出て銃を持って戦った文学者は余り多くない。もしくは戦死した。そのあたりを小高さんは「歌人の運と不運」という章(48p〜)で書いている。

  宮柊二みやしゅうじ は1939年(s14)27歳で応召、43年(s18)召集解除。山西省で多くの戦闘に加わった。ボクの父より1つ上(父は1938年25歳で応召、43年召集解除)の同世代である。

  宮は歌人としての言葉を持つ人だったから歌集『山西省』で戦地の実体験を言葉に残した。歌集において彼は徹底して情や説明を排除した。
 逆にいうとすれば、思想的な観点が少ない。いわゆる戦争文学の代表作品である、野間宏『真空地帯』、大岡昇平『野火』『俘虜記』、安岡章太郎『遁走』などと比較してみればそれがはっきりする。
 戦場カメラマンのワンスナップと同じ視線で歌が詠まれている、そういうように読める。  ・ 落ち方の素赤 すあかき月の射す山をこよひ襲はむ生くる者残さじ

 ・ 胸元に銃剣うけし捕虜二人青深峪 あおふかだにに姿を呑まる
 小高さんはボクと同年の生まれ。恐らく宮の『山西省』に詠まれた戦場の熾烈さ、精神への酷薄 そのことに深い感銘を受けて、彼の評伝を書い たと思われる。もちろん、彼の父親の軍隊歴に重ねて宮の短歌を読んだに違いない。

 ・ 湯豆腐を好みたる亡父勲七等陸軍伍長のごとき一生       小高賢 『怪鳥け ちょう の尾』(再掲)   ボクの父は(そしておそらく小高さんの父も)普通の庶民なので、そういうものを後世に残すことができなかった。(ただしボクの父はペンの代わりにカメラを持ち込んでいた。その写真は当HP・T アルバム の方に5編のシリーズとしてアップロード済み)
 

       宮柊二には、他にこういう歌もある。

 ・ つき放されし貨車が夕光ゆふかげ に走りつつ寂しきまでにとどまらずけり
 
 ・ いろ黒き蟻集まりて落蝉おちぜみ を晩夏の庭に努力して運ぶ

 ・ 徐々徐々にこころになりしおもひ一つ自然在しぜんざい なる平和はあらず
 
 ・ 戸を引けばすなはち待ちしもののごと辷すべ り入り来きぬ光といふは
 
 ・ ゆらゆらに心恐れて幾たびか憲法九条読む病む妻の側わき

  宮柊二というスケールの大きな歌人の全体像については、ぜひ本書を読んでみて下さい。



上田三四二
 トランスビュー 2009.4

  すでに日付が変わる時間がきましたので、上田三四二の名歌を一首だけ紹介して、執筆止めます。

・ ちる花はかずかぎりなしことごとく光をひきて谷にゆくかも

* 吉野の桜をイメージして詠んでいます。さくらを詠んだ歌は世にたくさんありますが、ぼくに一首挙げよと言われたら、この一首かな。岡本かのこにもよく知られた名歌があり、それもいいけれど、、、
・ 桜ばな命一ぱいにさくからに生命いのち をかけてわが眺めたり                      岡本かのこ


  帯の太字中「底荷 」という言葉は船の荷が空のとき横転しないように重心を下げる重しのこと。日本の文化は日本語によって支えられているのだ、という自覚があり、短歌はその核(コア)の役割を担っていると考えていた。


  補足 2月13日18:00    下は、上掲『この一身は努めたり』の表紙帯の後ページ面をコピー

一身、背表紙





 本書「あとがき」から抜いた短いコメントだが、小高さんが上田の何に注目していたかがよくわかる。
「才を恃たのむのではなく、真面目に励めば何かが生まれる」





 
   
上田三四うえだみよじの歌

 ・ 年代記に死ぬるほどの恋ひとつありその周辺はわづか明るし
 
 ・ つきつめてない願ふ朝ぞ昨日きぞ の雨に濡れてつめたき靴はきゐたり
 
 ・ うつくしきものは匂ひをともなひて晴着のをとめ街上がいじょう を過ぐ

 ・ たすからぬ病と知りしひと夜経てわれよりも妻の十年ととせ 老いたり
 
 ・ 白木蓮のひと木こぞりて花咲くは去年こぞ のごとくにて去年よりかなし

 ・ 腹水の腹を診て部屋をいづるとき白髯はくぜん の老は片手にをがむ
           
                  上田三四二の本業は医師


 ・ 乳房はふたつ尖りてたらちねの性さが のつね哺ふくまれんことをうながす
 
 ・ 三十年わが名よぶ母のこゑありきそのこゑきかぬのちの二十年 

 ・ 世のひとにあらざるわれが世の些事さじ をもちて日々通ふ妻をただ待つ
                              晩年病床の歌

 ・ 遺志により葬儀はこれを行はずふかくおもひていまだも言はず


   

              −− 本日は以上、続編あり 、ということに −−


  •   blog3回目 2014年2月21日

       小高 賢さんの予感? 最後の歌のこと

 今日は歌人・小高賢の最後の歌のことです。
 「短歌研究 2月号」に20首、「現代短歌 3月号」に13首載っています。
 今日の郵便でボクの歌の先生がコピーを送ってきてくれました。
 「かりん 3月号」が10日ほど後に出れば、そこには本当に最後の歌が載ることと思いますが、それはそのときに。



 「短歌研究 2月号」20首中6首
 

・ 人の死は酒席にまぎれ壁に掲ぐ献立表のひとつに終わる                
 
・ 夕闇の葬りにふれて涙せど一時間経て鳥の腿噛む                    
 
・ 死が序列狂わしめたる席次なり三人越えというリアリズム                 
 
・ 消えゆくは大正世代のみならず堕ちゆくはやさ競うがごとし              
 
・ 死ぬまでの時間をはかるここちせり全歌集あと100ページほど         
 
・ 新しき手帖にうめる生活の間仕切りに似る診察予約               


 「現代短歌 3月号」13首中7首

・ 耳遠くなりたる性は長命という説のあり 武川忠一                  
 
・ よきものの七十歳ななじゅう 代という歌をにわかに信ぜず信じたくもあり      
 
・ 警報のくらき灯かげで書きつげる明治の気骨見す『冬木原』            
 
・ 老いてなおこころ奪わる年下の死に遇う哀しさうたう哀しさ               
 
・ 晩年の空穂の日々は生のすべ尽くしたりけん老白梅か                
 
・ 「死はやすし」と洩らす心地の訪いくるや冬陽差しこむ日の『去年の雪』      
 
・ 不審死という最期あり引き出しを改めらるる焉おわ りはかなし          



 先生の手紙を開封し、同封のコピーを開いた瞬間にボクは気付きました。
 なんとたくさんの「死」の一文字が立って見えることか。 
 気を取り直し読み出せば、その文字が使用されない歌にもその影が迫っている。
 
 彼はどんな回路でわが身に迫っていることへの予兆を得ていたのだろう。 
 「短歌研究」の最後の歌には「診察予約」の言葉が見える。身体になにか気配を感じるものがあったのか。それとも通常の健康診断だったのか。 
 
 「かりん 3月号」が10日後に出れば、そこには本当に最後の歌が載ることと思いますが、それはその時に。




  blog4回目 2014年2月21日(その2 補足記事として)

 小高賢さんの最後の歌を読んでもう一つ気付かされたことがある。彼は国会に何度も抗議しに出かけていた。
 それをボクは知らなかった。ボクの頭に入ってきた順では、最初は歌の先生から聞いた。 
 亡くなったその日2月11日の夕方、Netの訃報記事を読んで驚き、少し様子を聞きたいと思い電話を掛けた。すると「過労が重なっていたのでしょうか」といったやりとりの中で先生は「忙しい時間の中を、秘密保護法反対のデモにも出かけていたようですよ」と言った。

朝日2/19夕コラム
 次は朝日新聞/19 朝刊文化欄のコラムだった。
 新聞社著作権のことが分からないのであえて部分を示すが、文が3段のこの記事では、左の写真で分かるように彼の名を冒頭で「鷲尾賢也さん 」と本名で書き、一般にはより広く通るペンネームの「小高賢」がどこにもないのであった。
 うちのかみさんから「鷲尾だけじゃわからない人も多いんじゃないの」と言われて分かった。
 
 「いかにも彼だなあ」と思えたのは、書き出しで「講談社の名物編集者だった、、、」とまずは書くが、彼は社内で、出版文化を担う企業の 「社格」を上げるために戦う人だった点を述べるくだり。コラムの中段にはこうある。

  「僕は講談社の中で岩波書店をやってるんだ」と言っていた。 新書が教養から実用へ傾く流れは止められず、学術色の濃い「選書メチエ」を創刊 したのだろう。ただ、学術分野は岩波が強く、若い頃は執筆を依頼した学者から門前払いにあったともきいた。
 もう一つ気付くことが一番最後の部分にあった。
  亡くなる6日前に届いたメール。「どうしてこんなに日本は急にファッショになってしまったのでしょうか」。

 こういう流れの中で昨日の小高賢さん最後の歌を詠むと、、、

   「短歌研究 2月号」 20首中4首

・ 老いさびぬ犬の散歩に小太りの猫の薄目や 法案通る               
 
・ 拍子木の過ぎたるのちに「用心」の声は裾ひき角をまがりぬ           
 
・  失速し水に墜ちたる「狗いぬ 」を撃つ飛礫ひとつも見えぬ茱萸坂ぐみさか     
          * 茱萸坂の真下は地下鉄千代田線の「国会議事堂前」駅ホーム
 
・ 消えゆくは大正世代のみならず堕ちゆくはやさ競うがごとし          
 
  「現代短歌 3月号」 13首中3首
 

・ 周縁にまず回り込みうしろより足音ひそめ来たる改憲              
 
・ もはやわれしりぞかざると決意する妻をいざない茱萸坂通い          
 
・ こうなれば言わざるを得ぬ目をそそぎうるさきほどに抗議を         


 ボクも昨日の国会中継を聞いていると、国の形が次々に崩れていくのを感じてしまう。
 気骨ある小高賢さんのような人の死は、本当に惜しくてならない。

   追加 2014.3.8

  小高賢さん、元気に旅路を、、、

  本日(3/8・土)朝日新聞夕刊「惜別」欄 

 惜別−−歌人/編集者   小高賢/鷲尾賢也さん 
  2月10日死去(脳出血)69歳 2月14日葬儀 

 
・・・(略)・・・
  歌人の「小高」姓の由来を聞くと、「コザカしいから」 「本名がワシなので、小さいタカ程度でいい」などとはぐらかしたが、実は妻三枝子さんの旧姓。照れくさかったらしい。
 
・ われがもう六十歳半ばということに子らはおどろくもちろんわれも

 この歌は、生前最後の歌集「長夜集」の1首。だが、老いが自おのず とおかしみを醸す「老いの歌」を詠む時間はなかった。
  福島の事故以降、週末は官邸前の反原発集会に通っていた。
  「憤るだけでなく、何かしなければ」と。すべきこと、したいことがたくさんあった無念を思うばかりだ。  
                                                      (記・大上朝美)
       
(記事の後のほうだけここに転載させてもらいました)

 小高さんの所属する歌林
かりんの会月刊 「かりん」の3月号には7首が載る。そのうちの3首をここに紹介する。辞世の歌として読んでおきたい。

・ 明日は雪の予報にこころはずみたる夜をみつめるガラスの彼方
 
・ ハンタイを届かせるため小さじほど傷口に塗る塩をもたねば
 
・ ひっそりと隠れて生きる希のぞみ から恥ずかしきほど遠ざかりたり



追加 2014.4.21

   『老いの歌』のこと
岩波「老いの歌」表紙
 ここの一連では5冊を取り上げたことになるが、5冊中この岩波新書が一番新しい。(2011.8.19発行)

 まず、帯を見れば、そこには「余生ではない、新たな生へ」とある。

 次は表紙内側のキャッチコピー

「老いたら私はどうなるのか」、誰もが感じる不安である。
だが先例のない超高齢社会とは、裏返せば、人類にとって未知の、広大な可能性ではないだろうか? 〈私〉を歌う文学である短歌にヒントを求め、〈老い〉という新たな生の豊かさを探る。短歌はもはや〈青春の文学〉ではない、老いの文明を生きる私たちの力強い伴侶である。

 このようにして、彼自身を含み、高齢者の仲間入りを果たした(果たしつつある人も)団塊世代に本当の成熟を期待していたのが小高賢であった。
 それなのに彼は、あのやや高いテンションのまま、同世代の者の先頭切って逝ってしまった。
 
 彼が、この冊子に書き込んでいる内容の幅と密度は高く、退屈しない。
 短歌に馴染んでこなかった人が読んでも、内容は平易。誰にも了解が容易であろう。
 類書があるようでありながら、これだけの質をもったシニア向け「入門書」に出会うことはないと思う。


 
昔、ぼくがまだ初心者だったころ、彼の口から聞いたことがある。
「いい歌を詠もうとばかりしていきんで作ると 、うまくいかない。例えば茂吉を読んでみると、彼の歌にはつまらない歌もたくさんあって、その中でいい歌にうまく出会えたとき、彼の歌の良さがよく分かる。一般の人の歌集でもそういうことは言えると思いますよ」
 茂吉は斎藤茂吉のことで、この本の中にも、大事なところでしっかり登場してくる。 〔2 茂吉『つきかげ 』問題〕ではこの茂吉最後の歌集の意義を丁寧に解いているからお読みあれ。
 老境に入ってから戦場体験を歌いはじめた、一般には無名の人もいて、そういう歌にも目配りがある。
 老人ホームの光景や、身体的不如意を嘆く歌だけが「老いの歌」ではないことを、この一冊がよく語ってくれている。また、高齢者には俳句と短歌のどちらが取り組みやすいか、両者の長短はどこにあるのか、そういう、ことばという心の容れ物の種類についても一工夫のある考察が加えられている。

 雑駁ですが今日はここまで。

追加 2014.8.26

   『現代短歌作法』のこと

小高「現代短歌作法」

         新書館 2006.12.25 第1刷

 先日書架を何となく眺めていて発見。書架の場所が3箇所(居間・旧書斎・新書斎に分散。あとは少量ではあるが、結婚して出て行った娘と今も共用の書架がもう1箇所、2fの廊下にも)にも。書籍類がこのように分散してしまっていては不便このうえないが、このゴタゴタは当家における一定のいきさつを踏まえていて、配架のやり直しなど自分の力量では不可能。この本の所在が最初から分かっていれば、ここでは歌集『本所・両国』の前に置くべきものであった。

 目次での「3,はやわかり短歌史 @」と「4,はやわかり短歌史 A」とはは、所属結社の主催者・馬場あき子が、作家活動の途中から王朝和歌にも関心を回帰し、作風の幅を広げてきたたことに軽くは触れつつ、主要には近代短歌から現代短歌への変遷を、結社の傾向も、結社外勢力台頭も読み解こうとする。

 彼は、年齢的に見て遅れて短歌の世界に入ってきた。経歴で言えば青年期を過ぎた社会人としてスタートした。
 「5,短歌自分史 」になると、まるで水を得た魚のように「結社・かりん」創設以来のその自分のポジション を自在に語ってやまない。生活者(サラリーマンであるが、出版業界の只中=編集者という特殊に言語領域の仕事に従事し、子供のいる家庭を持つ)というものを率直に押し出し、(段落「遅れたものの苦しさ」にリアル)ためらいがない。本業を他に持ちながらの歌人は多く(伝統的に医者や教師・教授が多い)いるが、彼の本業も、彼ほどに入れ込んだ歌人としてはやや異端である。

 政治的サラブレッドにも歌壇の重鎮(家柄さえある)にも遠慮は無用。その気骨にはボクもツベコベ抜きに共感できる。


 ページをめくると、その汚れのない読みあとから、ザッ、と読み流したようで、傍線も書き込みも見当たらない。蔵書の一冊に在ることを忘れていたのも宜むべなるかな。

(この章も)雑駁ですが、今日はここまで。


追加 2014.9.19

再論 『現代短歌作法』のこと

本書中央に配された「3,はやわかり短歌史 @」と「4,はやわかり短歌史 A」の再読を進めた。

その上で、
小高氏らしさが良く出ている一部を以下に取り上げてみた。抽出部分は茶色文字を使用した。

・  本書目次 はやわかり短歌史 @

 プロレタリア短歌と新興短歌芸術運動  途中126p〜

 もうひとつ、ターニング・ポイントのような企画があった。一九二六(大正十五)年、雑誌「改造」七月号の「短歌は滅亡せざるか」という特集である。回答者は斎藤茂吉、佐藤春夫、釈迢空、芥川龍之介、古泉千樫、北原白秋の六人であった。マイクロフィルムになっている「改造」を読んでみると、なぜこの時期に短歌を特集したか、不思議な気分になる。「改造」はいまでいえば、「世界」「中央公論」「論座」といった総合雑誌であって、誌面のはとんどが政治、社会経済的な論説で占められているからだ。
 回答者のうち、迢空と佐藤春夫が滅亡論であり、他の四人は滅亡否定論であった。滅亡否定といっても、白秋などの文章は微妙であった。白秋は、短歌の表現が日本語の本流であることをいい、短歌が衰退してみえるのは、歌人が専門家になりすぎていることを指摘し、「あまりにも専門臭の深い所には普遍性が無い。極度に限定された趣味と巧智とが益々象牙の塔を孤塁にする。偏狭と頑固と停滞とが来る」という。そして、ほかの芸術に関心がなく、かつ他結社との交流を忌避する傾向に、文学のうえでの短歌の孤立化につながっているといっている。これは、いまでもよく取り上げられる「歌の円寂する時」という追空の論文に近いニュアンスがないだろうか。
 迢空は白秋よりはっきりといっている。第一に、短歌には抒情詩としての宿命があり、叙事的な側面を盛り込むのがむずかしいこと。そして、口語の作品にも否定的である。第二に、「歌人が人間として苦しみをして居なさすぎる」といい、もともと即興詩であった短歌の本質が「わるい意味で支配」していると警告する。つまり、小手先の技巧ばかりに走る傾向を戒めているのである。さらに、つづけて短歌の現状に、真の意味の批評がないという。
 ニュアンスの濃淡はあっても、白秋にも、追空にも念頭にあったのは赤彦の領導した「アララギ」だろう。宗匠のもとに一糸乱れず従ってゆくスタイルに、文学としての危機を感じていたのではないか。もっと多様に、もっと自由に、もっと他ジャンルとの交流をという意識は、おそらく「日光」創刊の趣旨とも合致していた。と同時に、先に述べた日本の社会全体に起きていた地殻変動(貧富の差の激化、プロレタリア意識の覚醒) に対して、無意識かもしれないが、文学者として反応していた。これらの短歌否定論は、太平洋戦争を経て、声たかくいわれた第二芸術論にもつながる問題を胚胎していた。迢空の警告は現代短歌においても有効性をもっている。(以下略)


 戦争へ  先頭135p〜

 一九三一(昭和六)年、満州事変、一九三二(昭和七)年、上海事変、満州国建国、あるいは五・一五事件、一九三三(昭和八)年、国際連盟脱退、一九三五(昭和十)年、天皇機関説が問題になり、そして一九三六(昭和十一)年には、二・二六事件がおこる。時代は急速に軍事体制に再編成されてゆく。年表でみるかぎり雪崩をうって日本がファッショ国家に変貌しているように思えてならない。しかし、一つの方向を日本人全員が一体となって志向していたわけではないだろう。多くの力のせめぎあいの中から、結果として、一九四一(昭和十六)年の太平洋戦争ということになるのだ。ただ、同時代人でない私たちの眼でみれば、そこに何か歴史の必然を感じてし
まう。
 こういう時代を短歌として鋭くとらえたのは、芸術派と同時に、「アララギ」 に拠る土屋文明ではなかったか。一九三五(昭和十)年に刊行された『山谷
さんこく集』は、プロレタリア短歌が持ち得なかった資本主義体制の力の所在を、見事にあきらかにした。

  新しき国興おこるさまをラヂオ伝ふ亡ほろぶるよりもあはれなるかな  (土屋文明『山谷集』)

  木場すぎて荒き道路は踏み切りゆく貨物専用線又城東電車

  小工場に酸素溶接のひらめき立ち砂町四十町
しじっちょう夜ならむとす

  吾
が見るは鶴見埋立地の一隅ながらほしいままなり機械力専制は

  横須賀に戦争機械化を見しよりもここに個人を思ふは陰惨にすぐ

一首目は先にあげた満州国建国に際して詠まれている。下旬の痛烈な批評。時代認識の深度を読み手は感じる。二、三首目は、東京という題詠のもとで詠まれた作品であるが、即物的なタッチが、社会を、人々を動かしてゆく力を見事に表出している。「機械力専制」「戦争機械化」といった造語や、破調をおそれない韻律が相侯って、急速に変貌してゆく時代の推移が、三十一音に定着させられている。プロレタリア短歌、モダニズム短歌が獲得できなかった側面であった。「アララギ」の主張する写生が、文明の頼まれな描写力によって花開いた実例である。これらの作品を読むと、先の歴史的事実がどんな状況下で起きているか、いまの私たちにもはっきり見えるような気がしてくる。
『山谷集』は昭和前半を写しだした見事な一冊である。同時にそれは、「アララギ」という集団を、茂吉に代わり、土屋文明というリアリストが担い出した端的な証拠でもあったのかもしれない。

・  本書目次 4,はやわかり短歌史 A

 戦争  冒頭146p〜

 一九四一(昭和十六)年十二月八日、突如、アメリカ、イギリスなどと戦端を開いたことをラジオが高らかに告げた。十一月、アメリカ国務長官から中国からの撤退をもとめられたいわゆる「ハル・ノート」が提示された。実質的に日米交渉は決裂へ向かっていたのであるが、突如、山本五十六率いる連合艦隊がハワイ真珠湾を奇襲、大戦果をあげたというのである。(中略)緒戦の日本軍の躍進ぶりは目覚しいものがあり、日本中が勝利に沸きあがった。
 すでに一部紹介したが「短歌研究」(昭和十七年一月号)は、急速、「宣戦の詔勅を拝して」という特集を試みた。(中略)雑誌の発売は、おそらく十二月の暮であろうから、作品依頼から制作までの時間は限られていたことが想像できる。


  長き時堪へに堪へつと神にしてかく欺かすか暗く坐しつと           (北原白秋)

  勝たむ勝たむかならず勝たむかくおもひ微臣のわれも拳握るも         (吉井勇)
  大御稜威おほみいつかしこくもあるか戦争は必かならず勝つにさだまりにけり       (岡麓)
  皇軍の海軍を見よ世界いま文化の基準あらためぬべき             (窪田空穂)
  大きみの統べたまふ陸軍海軍を無畏の軍いくさとひたぶるおもふ        (斎藤茂吉)
  ルーズヴュルト大統領を新しき世界の面前めんぜんに撃ちのめすべし       (土岐善麿)
  東京に天の下知らしめす天皇の大詔おほみことのりに世界は震ふ           (土屋文明)
  大詔かしこみまつり一億の御民の心炎とし燃ゆ                               (佐佐木信綱)

 作品の一部を紹介してみたが、この他、川田順、与謝野晶子、尾山篤二郎、相馬御風、金子薫園、松村英一、半田良平、前田夕暮などが参加している。あえて彼らの作品を引かなかったのは、引用したものといずれも大同小異だからである。つまりパターン化、類型化がはなはだしい。作者名を入れ替えてもあまり変わらない。ほとんど見分けがつかない。それはど、没個性なのである。(中略)
 時代のハンドルがひとたび急カーブをきり始めると、たちまち、このようなレベルに陥ってしまう。時事詠のむずかしさは、短歌という詩型のもつ最大の難所なのかもしれない。一九四一(昭和十六)年十二月以後、短歌はおおむねこのような空疎な作品のオンパレードという様相になる。
 (中略・151p〜
 ただ戦場に赴いている兵士たちだけは、そのような状況のなかで、唯一といっていいはど読むにたえる作品をつくつていた。銃後の大家たちが、「撃ちてし止まん」的な空疎な作品に終始しているときに、彼らは「生き死に」 の現場から歌いだしていた。だからこそ、リアルであり、読者を捉えたのである。そのひとりが宮柊二である。

  つづけざま迫撃砲弾落つるなか右翼からおこる「捧銃」ささげつゝのこゑ
                                  (宮柊二 「短歌研究」昭和十八年七月号)
  汝が遺骨捧げわが乗る自動車は反動して埋没地雷を幾たびか遅く
  浮びくる中共論理の言葉群春耕、犠牲、統一累進税
  右の闇に鋭き支那語を聞きしときたゆたひもあらず我等地に伏す
  目の下につらなる部落の幾つかが我に就き敵に就き遂に謀りき

 現場だけが体験しうる迫真的場面、あるいは亡き戦友を送る風景、先に挙げた大家たちの開戦の作品と較べようもないほど迫力がある。宮柊二はその代表だが、その他にも戦地の体験が短歌となって結晶していた例は多い。なかでも、「アララギ」の「其の二」欄は注目すべき作品群であった。



  飛行機投下の羊羹小さく分け食せど軍靴わたれば又喜びつ           (生井武司)
  占拠して間なき地域に婚礼の駕龍ゆく見れば立ち止まりたり
  吊し柿つくろと馬の鞍にさげこの高山をこゆる兵あり                (中山隆佑)

  迫ひすがり二刺し刺しぬわが胸に銃口つけつつのがるる敵を            (松田芳昭)
  撃墜され泳ぎをりしといふ敵機乗員を憐れむ心うかびきたらず          (阿武寿人)



 これはみな一九四三(昭和十八)年の「アララギ」から抽出した作品である。ビルマ、北支、中支、あるいは海軍といった場所、所属が付されている。いずれをとっても侵略戦争の要素は否定できないが、逆に、これほど大量に、日本人が日本以外の地域に出かけたことは初めてである。その外地での体験が、「アララギ」の「写生」という方法によって、あざやかに三十一音に写しとられていることは注目していい。「アララギ」がいちばん目立つが、他の結社誌においても、現地からの作品はやはりリアルで空疎でない。いまでも十分読める。銃後の歌人(いわゆる専門歌人)の「ていたらくぶり」と対照的である。

前衛短歌の出現  168p〜

 それまで戦後短歌は、あるいは歌人たちは、戦争の後遺症もあって自分の詩型にどこか後ろめたい感情を隠すことができなかった。また、詩人、小説家、評論家といった他ジャンルの発言に理論的に応じることができていたとはいいがたかった。ところが、「方法論争」で大岡信と塚本邦雄が、「定型論争」で吉本隆明と岡井隆が、「様式論争」で嶋岡晨あきらと寺山修司が、真っ向から論戦し、一歩も譲らない議論が展開されるなど、それまでの短歌の理論的脆弱さが一掃されたような印象を歌壇に与えた。短歌もけっこう頑張っているというイメージが生まれたのである。それらからも見えてく.るように、前衛短歌運動は従来の結社が新人を用意し、それを歌壇に送り込む構造を壊してしまったのである。これ以後、結社を横断する活動が多くなってゆく。その結節点でつねに活躍を見せるのが岡井隆である。
 岡井隆は「アララギ」 の歌人であった父母をもち、近藤芳美に兄事し、「未来」という結社に属していた。しかし、塚本との交流から、次第に前衛短歌運動の牽引者として、論・実作ともに大車輪の活躍をするようになる。もちろん塚本邦雄が前衛短歌の創業者なのであるが、岡井という並外れた強大なエネルギー(行動力) の推進力があったからこそ、前衛短歌運動が多大な影響力を戦後短歌のなかに及ばしたといっても過言ではない。そののち、現代に至るまで、現代短歌史は岡井隆という歌人を軸として動いているところがある。

あわあわと今湧いている感情をただ愛とのみ言い切るべしや    (岡井隆『斉唱』)
抱くとき髪に湿りののこりいてうつくしかりし野の雨を言う
警官に撃たれたる若き死をめぐり一瞬にして党と距たる

 第一歌集の清潔な抒情は「アララギ」の正統な継承者というべき作風を示している。しかし、第二歌集『土地よ、痛みを負え』になると、主題意識やモチーフが拡大し、喩の手法による世界の拡大が試みられる。
                         
最もちかき貴大陸を父として俺は生れた朱しゆに母を染め    (岡井隆『土地よ、痛みを負え』)
胎内のわが背に痣をのこすまで鞭うたれおり母は私服に
産みおうる一瞬母の四肢鳴りてあしたの丘のうらわかき楡
キシヲタオ‥シその後のちに来んもの思もえば夏曙のerectio penis         
あらがねのごとき体からだがひしめきて犠祭にえまつりせり 六月・日本

 政治状況を詠むにしろ、さまざまなイメージが駆使されている。最初の三首は「ナショナリストの生誕」という連作のもので、自分の生誕とアジア、とりわけ中国大陸の推移が重ねられている。後半の二首は、安保闘争を詠んだものである。性と政治が重ね合わされている。
 前衛短歌の波及力は大きく、その流れのなかで多くの新しい歌人が輩出した。たとえば、浜田到、春日井建、そして葛原妙子などがその実例である。もちろん彼らを一括りに前衛短歌の担い手とはいえないかもしれない。しかし、前衛短歌の渦中から登場したことはまちがいないだろう。つまり、従来の短歌史のメインストリートではない場所から歌人が生まれることを可能にした。


続いては、
新しき世代−−−村木道彦、福島泰樹、高野公彦
ライト・ヴァースと「サラダ記念日」
インターネット短歌と口語調

と続くが、ライト・ヴァースと「サラダ記念日」の中では彼が所属する「かりん」の馬場あき子の短歌史での位置づけも語っている。ここでもなかなか個性的な評論の仕方がなされていて、読者の注意を惹く。


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