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MochiのLogcabin

     本  棚    3       サハリン島 二題

チェーホフサハリン島  と  李恢成「サハリンへの旅」(執筆休止中)

 自分の読書の順では李恢成「サハリンへの旅」の方が早い。
 (手元の本が講談社文芸文庫版1998年、第4刷で、読んでから十数年にもなるだろうか)
 が、最近、と言っても三年近く前にチェーホフ「サハリン島」を読むことで、再びその「サハリンへの旅」のことが思い返されるに至った。

 何事かを論じる、というのではない。気ままな読書の軌跡を残すのも一興、と思い立ち、気取って言えば小島信夫のように起承転結を捨てて、読書した日々をBlogを逆順に収録し直して 追ってみたいと思う。
 なお、チェーホフ「サハリン島」に関する箇所は紺色文字 に変えてある。

2010.10.13     チェーホフの「サハリン」 チェホフの顔

午前中は、流山、母に面会。母専用の固定電話解約。
 午後、ネフスキー、PC採録作業。16枚(400字換算)程度までくる。
夕食後少しはかどり25枚分程度まで、まだ推敲なしの単純入力で。
ただし、このYAHOO!blogのレイアウトには適さない感じがする。研究してみたい。
   写真は大阪在住時代のN,ネフスキー
               「天の蛇」より(部分)
    * 掲載割愛
TVが昼前からチリの鉱山労働者救出のニュースを盛んに流している。順調に進行中の様子。


  ゆうべの睡眠誘導読書は「シベリア&サハリン紀行」チェーホフ・筑摩文庫
最初に巻末の「解題」(かなり長い)をチェック、ついで冒頭の「シベリア紀行」から入った。まだ読み始めだが、「サハリン紀行」に入ったら全部読まないでもいいのではないか。去年はパラパラめくりそんな印象だったが、今回もやはりそんな感じがする。「シベリア紀行」は短いから全部読む。こちらで言う日清戦争直前のシベリア開拓の様子がリアルに分かり、面白い。シベリアの農民(ただし一部の、字が読めるようなレベルの人たち)の耳にもシベリア鉄道建設の話が入ってきているが、旅の姿が、まだ大黒屋光太夫がペテルブルグまで西進した時代(さらに100年前)とあまり違わない。
本日、「カテゴリ」を人文科学に(文学ではなく)入れた。「子犬を連れた奥さん」などとは全く異なる硬質の紀行文で、 110年が過ぎた今となって読むと立派な歴史資料になっている。


2010.10.15     些事若干

今日は午前中菜園
ダイコンの2回目の播種、、、これで冬場に12本。まだ足りない?。
タマネギ、ニンニク、赤色20日ダイコンが順調に発芽してきた。
一畝起耕し石灰を鋤き混む。まもなくホーレンソウを蒔くため。
 
午後、駅前の文教堂書店に行く。
「山と渓谷」11月号が並んでいたのでチェック。

  夕べの安眠読書、チェーホフ全集、12の冒頭「シベリアの旅」は読了。
所々にいかにも彼らしいユーモア(親父ギャグ)が訳出されていて彼の道中の苦労が明るく表現されていた。


 2010.10.17      チェーホフのマジメに共感

昨日は流山に母を見舞う。
その他、日常雑事。


 例の、「夕べの安眠誘引読書」なのだが、眠気にあらがい、結構引き込まれる。
序幕のような「シベリアの旅」が終わり、いよいよ全部で600ページあるうち65から575ページまでが「サハリン島」である。ゆうべ111ページで止めた。アムール河口のニコーラエフスクを汽船で発ち間宮海峡を南に抜けてサハリン島中部の開拓拠点都市アレクサンドロフスクに到着。
彼は書く。
「人口3000ほどの・・・品のいい町だ。・・・島の長官の官邸があって、サハリン文明の中心地だ」
間もなくアムール地方総督(男爵)巡視を島を挙げて仰々しく迎える「行事」を目の当たりにする。大局は ギリヤークやアイヌという先住民を虐待しつつ、流刑になった政治犯や刑法犯を使役して開拓を推し進める、東進ロシアの農民移住が可能な事実上最果ての島である
そこは役人天国・事大主義の悪弊跋扈、罪の定義を問わない「罪人?」を奴隷や農奴同様に酷使する専制主義国家の恥部
そういう土地であるからこそ、何の肩書きもつけずに裸の一個人として観察に飛び込んで行く勇気 いや、少し違うかな。身の安全のために若干の肩書きを得た上で出発しようとした節もあるのではあるが
かく生きる態度がチェーホフの文章を支えているのだと思うと、改めて彼の偉大さが見えてくる 帝国の恥部をまともに書いてそれが金になるような時代ではない。取材から陰に陽に制約があり 苦心して書いたモノはみな検閲の網にかかり自由気ままに書くことなどできなかったのだ。それでも読むと面白い
 
ここまで読んだだけでも、スターリン時代のラーゲリ(収容所)は、帝政ロシア時代の囚人労働の伝統を十分に踏襲した国家プロジェクトだったことがよく分かる。日本兵のシベリア抑留はそのごく一部、ということになる


 2010.10.19     夕べもチェーホフのサハリン島

 昨日と今日(月・火)は1歳半を過ぎた孫娘が発熱のため、保育園に行けず、ジジ・ババでお守り役。昨日は小児科にも。今日はだいたいよくなったようだが、ババが昼前から仕事に出てしまったので、只今ジジひとりで。利発な子でさかんにいろいろな言葉を発し、新しい言葉や歌を習得中。

 
夕べの寝床読書は引き続き「サハリン島」チェーホフ。けっこう飽きない。
便所なし、寝具なし(ボロ布をひっかぶり、少し傾斜のある板に並んで横たわるだけ)という全くの豚小屋状態(ブタさん御免なさい)からそこそこの市民生活まで、徒刑、流刑、刑期終了の自由民まで、そして官僚システムと軍隊のピンからキリまでの階級差別、足枷を付けられて苦役を強いられる者から、服役中ながら少々の財をなす(賭博や密売買)者まで、きれいごとの一切をひんむいたあとの娑婆そのものである。
かなり昔「イワン・デニソヴィッチの一日」ソルジニツィン著が、ため息が出るほど面白かったが、チェーホフに半世紀以上もの後塵を拝している分、少し色あせるかも。それより何より、両者はひと続きなのだ。「イワン・デニソヴィッチの一日」の書かれた後、ロシアの大都会で始まった消費社会(スターリンが亡くなり、フルシチョフ登場のころ)と旧態依然の囚人医療の落差を巻末に据えた長編「ガン病棟」までの一連、それもロシア。またチェーホフのえがく19世紀末=ツアーリズム末期のロシア、これこそが本物のロシアか!


 2010.10.20    尺取り虫みたいにチェーホフが進行

本日、多少の(2時間ほど)時間を作り、ホームページ開設の解説書の肝心部分を読み、開設出来そうな実感あり。

 
夕べの寝床でもまたチェーホフ「サハリン島」読み継ぐ。僕が見た経験で北海道の山林周辺(林道のような明るい所)で頻繁に見る傘に使える大きな蕗(フキ)が「大きな牛蒡(ゴボウ)」と出ている。やっぱり、葉の直径が70?pあって雨の時に被る、とある。同じキク科で両者は種としても案外近いのかも。これをみんなが食べるとは書いていない。基本的に開墾地が足りず、あらかたが飢えていて、餓死者も出ているのだが。
夕べのところでは、極めて善良なある流刑囚が、労苦をいとわず自発的に手足を動かし労働していて、連想から「イワンのバカ」のイワンが見える。
逆にうまく立ち回ってちっとも働かないやつもいる。囚人への刑罰の基準がでたらめで、兵隊や看守が自家用に使役することも常態化している。
刑期を終えたユダヤ人が財を蓄えていく話は、資本主義にうといロシア人の間を巧みに泳ぎまわれる能力から来ていて、ソ連時代になってもねたみと差別とに苦しむ。ただし貧困を克服しえた人々はロシア人にもまた少なくなかった、そういう彼らが、悲惨を伝える流刑地の混沌の行間から姿を現す。
(220pを超えた)


 2010.10.23      北部サハリンの囚人たち

昨日はエンドウ豆の播種。直蒔きせず育苗用ポットに、キヌサヤとスナップ(毎年好評)を半々。小さな種袋でも半分余る。
食用キク(こういう色の品種)の風折れ予防に支柱を立てる、もう蕾が出ているが猛暑の夏場に雑草放置のため、あまり収穫は期待できず。
 
おとといのホームページのテストはささいなミスで御破算
昨日、最初からマニュアルを慎重に読みながら、元にもどす。
今日は、先に少し進めよう、さてどうなるか 
資金面から、無料の公開ソフトをいじくっているが、余り賢い選択ではなかったかも。


  例のチェーホフ「サハリン島」は真ん中を越えたので、もう飽きるほど流刑の島の実態が分かったからやめて別の本に移るかな?と迷っていると、ちょうどそこから「南サハリンにも行ってみよう」となったので、やっぱりあすから読み継ぐことにした。
当初「日露和親条約」1854年では両国民雑居地とされていたが、「樺太・千島交換条約」1875年によってロシア領になっていた。ついで「ポーツマス条約」1905年(日露戦争の結果)で南半分が日本領になった。
チェーホフが訪れたのは1890年、ロシア領時代のことであった。
以下は北サハリンの諸相の要約。
北樺太は穀物栽培に適さず、年によってはジャガイモさえ真夏の寒気で枯死する始末。ロシア本土からの大量の食料輸送で(必要量は来ず)開拓民は生き延びようとしていた。牛や馬を飼い畑作をやるヨーロッパ型の有畜農業を気象条件無視でやろうとして、おおむね失敗し、そのしわ寄せが、足枷をつけられた徒刑囚や脱出できない流刑囚、彼(女も)に付いてきた家族や、刑期が終わってもほかに行くすべのない自由民を苦しめた。
囚人労働によって道路建設、刑務所開設が盛んにおこなわれ、それらの建設に間に合わない囚人が続々と送り込まれ、刑務所も村も設備に倍する過剰人員を抱えた。本土の役人は無責任な机上計算の始末を全くとらず、現地視察は夏場一回のセレモニー。現地責任者も自分の得にならないことは言わない。
開村のおおくがあちらにもこちらにもという刑務所設置から始まった。各刑務所は1000〜3000人も収容。ロシアは囚人大国であった。囚人を私物のように勝手に扱い、あたかも荘園領主のごとき刑務所長はそれがあたりまえのこととしておさまっていた。兵士さえ囚人を自分の従者として利用していた。
徒刑囚が足枷を付けられたまま使役される炭坑労働はロシアの一企業が請け負い、囚人使役の代償は何も支払われない。一企業の囚人私物化である。この話を他国の話として聞き逃すことは戦時に徴用労働者を酷使した日本人も許されないであろう。

ギリヤーク人・アイヌ人など先住系の人々の様子も忘れずに記述されているが、本日は記述割愛。


 2010.10.25        気分転換に三浦哲郎

  晴耕雨読方面、ホウレンソウ(西洋種)が順調に発芽。エンドウマメもポットで順調に発芽。食用菜花をもう蒔きたいが怠慢。
昨日、母(89歳)の老人施設で「収穫祭」という昼食会あり、まもなく2歳になる僕の孫娘も参加。戸外だったので少し寒かった。
今日は妻が、実家の実母(100歳)が無呼吸がひどいというので、入所の老人施設の担当医師に面会に出向いた。
 
なんで、「ブログ感覚で一日でできる」とうたう、出来合いのホームページがこうもややこしいのか
カタカナ言葉の専門用語も次々に意味不明。僕みたいな老人を根本的に愛する気持ちがないようだ。
事前に疑っているのは、縦書きには表記できないのだろう、ということ。歌論(短歌の)めいたものも載せたいが、横書きではひどく気分が壊れてしまう。


夕べの読書、「サハリン島」が真ん中あたりへきて、南に向かった。よく耳にするマウカ、コルサーコフ、ナイブーチが出てくる。少し暖かく少し明るい気配もあるが知性ある刑務所長が囚人への体刑(鞭打ち)を偏愛していたりする。
ヤレヤレ、おんなじか?


そこで、気分転換に『短編集モザイク ?T みちづれ』三浦哲郎 ・新潮文庫を手に、ごく掌編の最初の2編読んで眠りについた。安眠向きであるが本当は軽くないことをきれいに仕上げてあり、文体が湯上がり美人みたい。三浦哲郎「みちづれ」

2010.10.29    夕べは読めず、三浦哲郎

三浦哲郎短編集モザイク ?T みちづれ』が、一昨夜までで掌篇24話中11話まで来たていが、明朝6時起床にそなえもう寝てしまおう、と枕頭のスタンド消灯。
 
ところが、頭が冴えて眠れず。
この丸2日、ホームページ開設作業の山場に来て、パッ、パッ、とあちこちに飛べる「リンクを貼る」というプログラムがうまくいかない 。テキストや写真の貼り付け(掲載)は問題なく出来るのに!
本質的原因はHTMLのロジックと使い勝手がよく分かってないからなのだが、使い出したソフトが不親切で、「別途、HTML説明書を読むか、専用ソフトを購入しろ」なんてヘルプに書いてある。
この山場が乗り切れて、パッと視界が開けた暁には、皆さんにお披露目します。

 
  2010.11.4      ホームページ開設工事                      

  ↓  HTML記述に成功した2冊目

ホームページ作成テキスト  ホームページ開設を思いたってから、はや2週間
最初の開設プログラムはあちこちでつっかかり放棄して、既製の無料プログラムの2冊目に再度挑戦中。
やっていてわかってきたことは「ソース」を開いて英文起源のHTML記号が読めないと、結局うまくできない、ということ。
しかるに、始めてしまえばに、当然にもブログのように一日で開店というわけには行かない。自分はHTMLのしくみが全く分からずにブログを開く感覚で始めたからなかなか前に進めず。リンクを親から子に貼るのに2日、逆を貼るのに2日かかった。
今月中には何とかして中身を書き込み公開の作業に入りたい。
ひとからは、長い文章は読んでくれないよ、と言われているのだが、
ブログは文章が毎回上に重なっていくので、ちょっと長い文章を4回に分けて書けば「結・転・承・起」といった具合に、逆の配置になってしまう 。これが僕には不都合。
あと、縦書き、っていうのができるともっと好都合 。いつも、かの一太郎さんで、縦書き文章を書いているものだから。でも、そういう縦書きのホームページは、いまだ見たことがない。
 
安眠読書の
三浦哲郎短編集モザイク ?T みちづれ』一昨日読了。小説と言うより短いエッセーの感じがする。
24編中、最初の2つと途中・最後各1=合わせて4つに◎、あとは○と△が半々、さすがに×はない。これはぼくの無手勝流好感度判定。
   
  文庫版の帯このシリーズはいったん置いて、またチェーホフ「サハリン島」(その後半)に戻ろうと思っている。村上春樹の「1Q84」がこの本をどう利用しているのか、もちょっと気になる。
← ちくま文庫の帯 
   
* 後日追記
「1Q84」の途中に2,3行触れているが、「1Q84」の理解を助けるような位置を占めているわけでは無いように思う。

 2010.11.9     ホームページ開設工事・その2

  ホームページに「リンクを貼る」というロジックと方法はやっと大体理解 して、変更や追加が、ファイル内・ファイル外とも、余り手こずらずに出来るようになった。「親→子 ・ 子→孫とカテゴリわけで増やしていって支障ないわけだが、あれこれいじっているうちに「親」が2つ出来てしまった。まあいいか! 父親、母親と揃ったからこれから子供をたくさん産んで行けそう。老人の手習いに祝福あれ!
 
昨日は菜園に2度目のインゲン(スナップとキヌサヤ)苗の定植。さっそく先日植えた苗が2本、根元を囓り倒されていた。ヨトウガのしわざなので周囲をほじると黒いのが丸まって一匹出てきた。農薬をなるべく使わないので、こういうことはしばしば起きる。
 
畳替え、本日と明日の予定で。
古畳の下から、厚み合わせに敷いた22年前の3女の習字(小5のときの)が新聞に挟まって出てきた。
半紙には「合唱」と楷書、毎日新聞のトップは「スーパー301条・日米包括貿易交渉」88年4月20日。いつのまにか、畳も女房も古くなったのである。歳月は留まることなし、かつ、加速度的忘却。
 
  安眠読書、
チェーホフ「サハリン島」後半が待っているが うちの奥さんの要請で「別役春秋起・上」という和綴じの冊子を2,3夜挟むことにした。高知県の最僻地(徳島県境近く)の小中学校分校教員の手記である。文章の上手い下手が意味をなさないレベルで深い感動がある。敗戦直後、ここの分校の学校再建に取り組んだ一教員の回顧録である。執筆者が現在体調を崩し入院中で、中・下の2巻がまだ書きかけ中。はやく元気になって続きを読ませて下さい。

 2010.11.14     縁の下(この場合は僻地教育)を支えた人のことば

きょうは日曜。駒場の民芸館に河合寛次郎展を見に行ってきた。
帰り際に売店で「南無阿弥陀仏」柳宗悦、岩波文庫を買った。
蛇足ながら、あの周辺で程よい昼食の出来る店がない、、、いつもそう思う。代々木上原駅前でパスタを食べてから、同行の連れあいと別れ帰宅。彼女は母親の見舞いで千歳船橋まで。
 
安眠導入読書がかなり停滞ぎみ。
「別役春秋記・上」に残りわずかあるのを昨夜読み終えた。
安眠導入読書などという扱いでは失礼かもしれないが、この市井のもの書く人を軽んじているつもりはない。雑用が入り込んだり、耳に音がうるさいということのない時間に本は読むべし。僕の読書にはBGMも無用。
チェーホフだってこの時間を充てて読んでいるのだ。
高知県の山間僻地「別役」の貴重な証言たるこの本のことは前回少し触れたが、昨夜読んだ文にも良い記述があった。
 
河合寛次郎展往復の電車中では
三浦哲郎短編集モザイク ?U ふなうたの最初数編を読んだ。

  2010.11.18    どうして三浦哲郎を読むのか?

 若干多忙につき、読書のことのみ。

チェーホフ「サハリン島」は別の書店からも新訳が出ているらしい。
先ほど、読書家のU氏が電話のなかで、自分も枕頭にそっちのほうを置いているが、これも全訳である、とのこと。(僕のはちくま文庫)
ついでに、最近のロシア文学の新訳ブームのことであれこれ。


この本、僕は400pをすでに超えたので、読了が射程に入った。
 三浦哲郎「忍ぶ川」
じつは平行して三浦哲郎の短編集を、こっちは貴重な深夜の読書でなく、手軽に電車の中でも読んでいるし、それで十分読めているが、ふと思い立ち「忍ぶ川」 を今日、早朝4時から読んだ。
じき(21日・日曜)に、昔の生徒たちに会うことになっていて、そのために、やっぱり読んでおこう、と思い立ったのである。
その昔の生徒たちにたいしては思い出があり、これを、もしも話せば長いのだが、、、彼らが卒業後しばらく下町で「入谷映画村」というのをやっていた。
彼らに招かれて何度か出向き、16ミリを何本か観たが、記憶では、そこで自分が観た最後が、栗原小巻主演の「忍ぶ川」(監督は熊井啓)だったように思う。しかも僕は他用と重なり後半しか観れなかった。
「忍ぶ川」のラスト、かの有名な、雪の降る初夜の場面は、16ミリフィルムがカチャカチャ回る小さな商工組合の会館の様子と共に、もう30年以上も昔の記憶なのに、わりに鮮明な記憶としてある。
ふと、原作も読んでおいてから昔の生徒たちに会いたくなったのである。
読んでいて、終わりの方の、息子夫婦を迎える母と姉の振る舞いに、つい涙がこぼれた。泣かせ方のうまい芥川賞(昭和35年下期)受賞作であった。
この年に僕は高校1年生。政治的に早熟で生意気な’60年安保失望少年であった。あの年に世に出た作家だったのか! このことだけでも自分は心に銘記しておくべき作家だったのに、たかが大衆小説作家、程度にあしらってきていた。昔の生徒たちとの出会いに改めて「ありがとう」を伝えたい。

 2010.12.1     飛ぶような日々

弟の連れ合いの母(96歳)が亡くなり、紀州の「新宮」へ出向いたのが先週。
その後半は右肩異常(6月以来)に自然治癒をあきらめ、ついに整形専門病院へ。
この間、母を見舞うのが4回、畑に通うのが3回。
こうしてわが老後の毎日が浪費されていく。
今生をおさらばする日が本人に知らされていないのは幸い、というか、哀れかというか。みんな死刑囚とそれほど違わないのだ。10日ほど前、40年も昔の生徒数人と会食したおり「H先生がこの8月に心臓で急になくなりました」と聞く。H先生は保健体育の教師で、バレーボールが得意な教師だった。彼は僕の同年代なのだ。「心臓で、、、」というのは全く他人事でない。ジギタリス由来の薬その他、毎朝夕飲む身なり。
 
この間に三浦哲郎の「短編モザイク」全3巻は読了。
しかしこの短編集、読んでいるときは飽きがこず面白いが、全体として読後心の深い所に残りにくいなあ、と、今は思う。
しかし、「三浦の文章はこのようにして形にしてある」というところがわかって、勉強させてもらった。
読ませる文章としての面白さは十分読者にサーヴィスされている。
ぼくが「文章とは何か」に最初に開眼したのは30歳代末ごろ内田百間の雑文からだが、プロのモノカキの腕を実感したということでは今回も同じである。

  2010.12.2    ホームページ開設予告です

来月、すなわちお正月を目途に、ホームページが開けそうなところにきた。
時間を集中投下できないし、パソコンが苦手。まるでシャクトリムシのような歩き加減でここまで来た。
Logcabinと称し、建てかけの家ですが、ごらんいただけます。
http://mochi1209.karamatu.com/
これは「アルバム」(僕の写真)ページで、他に「本棚」(読書感想&図書紹介)のページへのリンクもできています。
 
「こうするともっといいよ」と、初心者向けのアドバイスがいただけると、とてもありがたいので、可愛がってください。
今日は「悲劇の言語学者 ニコライ・ネフスキー」というのを「本棚」のページにのせました。

 2010.12.13      ユズジャム作り

  今年はユズが当たり年(うちの庭では顕著)なので、昨日の午後、込み入った枝の剪定をかねて採集した。庭隅に一本だけ植えてある小さなヒメユズだが、枝先に房状に実り、数は力だ。中バケツ3杯とって、腕が痛くなってやめた。
今回、半分以上は採ったが、あと2杯ぐらい採れそう。
秋に入ってから、手の届きやすい所から少しずつ採り、いくらかは近所などに配り、また料理の脇役にも使ってきたが、とても使いきれない。ユズ味噌とか、ユズコショーとかいろいろ使い方があるが、今回はジャム用にする。
というわけで本日やや大きめの鍋で2鍋煮た。昨日採った量の半分、バケツ一杯半分でいま手持ちがある限りの空き瓶14本分出来た。
(2瓶すでに人にさしあげた)

 「寝床読書」欄は、本日書き込み割愛。

 2010.12.30    体の不調は悩ましい

以下の二点は自分の体のこと。
?@ この半年、右肩の「50肩もどき」に悩み、現在も直らず、ゆるやかに悪化の傾向。
そのうちに直るだろうと軽く考え、「いつのまにか直っている」というのを期待していたが、このままでは筋肉の萎縮が案じられ、睡眠にも支障のある痛みを伴うため、ついに11月中旬から「M整形外科病院」に通院、週1のリハビリ開始。
?A こっちは長期戦にしない予定なれど、10月後半から咳・痰が出て不快。
最初は「軽い風邪かな」と考えて、市販の風邪薬をてきとうに服用していたが改善なし。
12月になって近所の内科医師(呼吸器外来の看板もあり)の診察を受けて、抗生物質や、咳止め薬の処方を受けた。しかしながら気休め程度の改善を得たものの、10日ほどで元にもどってしまった。
結局昨日また受診し、再度薬の処方を受けた。咳止め薬の対症療法的効果はかなりあるような実感があるものの、気管支の違和感は変わらず。
以上の?@?Aのような、自分の仕事が現役時代ならばちょっと我慢して、そのまま自然治癒に任せてきたことが、近頃どうもアテが外れ、長引いてしまう傾向にある。
 柳宗悦
  例の安眠導入読書は「南無阿弥陀仏」柳宗悦・岩波文庫 
前置きがなんだか牛のよだれ。現代人と全くテンポが違う。特定宗派的立場に立って述べるつもりはないのだ、という意味のことを繰り返す。
夕べ読んだ最初の方には次の二点があった。
1) 親鸞はインテリ好みで今も支持者が多い。比べて、一遍はどうも分が悪いというところを雪だるまの芯に入れてある。(論じる手がかりにしている。)
2) 一遍が広めたような民衆の念仏と民芸雑器に共通する生活者の心の形に私たちは気付くべきである。(この価値観は「それもなかなかよいものだ」と、今日一般には相対化されてしまっているものだが)
この本は、このあと読むのがおっくうになれば読了しないかも。


文庫版表紙   いつの間にか、チェーホフは読了してしまっていたが、締めくくりの感想を書いておきそこねた。

補記 2013.8.6.

当時はblogのサーバーを取り替えたばかりだった。
(Blogに少し慣れてきた頃、MS社の「Space」が廃止になってしまった! 別会社の「Word press」に移れというが、サービスが英語のみなのでYahoo blogに乗り換えた)
また、blogは今日を発信するのが目的で、ボクのような過去に拘泥して生きる人間には余り向かない。
それで[ホームページを開設しよう] と発心した。教えてもらえる人も回りに無く、有料で誰かに最初を設定してもらえば楽なのに、ボケ防止になるかも知れないと考えて、近所の書店でプログラムCDが挟まった解説書を購入した。しかし一冊目はどうあがいても開設に至らなかった。やむなく2冊目を買って、「これで成功しなければホームページは諦めるしかないな」と脂汗を垂らしながら別のソフトでやり直したところ、不出来ながらup roadまで漕ぎ着けることが出来た。

こんな取り込み中に読んでいたのがチェーホフ「サハリン島」 で、三浦哲郎などの飛び込みもあり、気が散っていて終わりの方が自然消滅してしまっている。
ただし「サハリン島」の後の方は、最後まで完読はしたものの飽きが来ていたし、内容も臨場感あふれる写実文章が終わり総括的な記述に移っていて、読んでみて余り面白い印象は得られなかった。もちろんチェーホフ からすれば、世論や当局への書き落とすことのできない告発部分であるわけだが。

パソコン後日談を言うと、パソコンをVistaからWin7のものに1台買い換えることになった。ところがWin7にはホームページエディターのソフトが対応できないことが判明。やむをえず無料ソフト付き解説書のWin7対応新版、即ち最新パソコンでもHPが追加出来るようにするために3冊目を買って来てやり直しをした。
従ってボクのホームページは現在2種のエディター混用で編成されている。このページは後の方のエディターソフトを使用している。

チェーホフ「シベリアの旅・サハリン島」 その感想に代えて 

結局全部読み終え、印象を短歌に綴って残したので、それをここに貼ることで始末を着けようと思う。
 
   チェーホフ『サハリン島』(その1)     2011年11月     

夏来れば 道なき原野に轍つけ シベリア拓きし果てに着く島

シベリアに 枷を付けられ途切れなく進む列あり 戻る列なし

サハリンへとチェーホフ訪う「世紀末」 徒手で私人の入るは危うし

足枷の無き者おりしも 逃散のけしてかなわぬ最果てサハリン

足枷の囚人木を伐り道ひらき ラーゲリ次々島に建てゆく

千人の獄舎に二倍三倍を送り込めるを「開拓」とせる 

荘園の領主さながら 役人が農奴に囲うは刑あけし者

チェーホフ見し 巨大な牛蒡そは何ぞ 「傘にも使う」は蕗にあらずや

八月の寒気に馬鈴薯全滅の後の年越し 耐ええぬ年あり

食料の自給とどかぬ最果てに 牛も死にゆく青き毒花

人を試す神に負けぬと 神試すサタンもおりたり 霧覆う島


   チェーホフ『サハリン島』(その2)   2011年12月

シベリア式有畜ゆうちく農業試行せば 牛馬とともに囚人がおり

民間の請負企業の炭坑に枷曳く囚人 みな無賃なり

冤罪の息子哀れと母付き来たる 故郷に夫と子捨て来しと言う

肉切れし笞刑の痕の 手に首に見えたる男の ちぐはぐばなし

徒刑囚にその妻添い来て 飢えたれば身を売り生きて 今日を生きたり

地獄では人の命に値なし 梅毒蔓延したるを生きる

囚人は脱走しやまず 絶望の心にともす灯ひとつありしに

希なるも刑期をすませ若ければ 島出でゆかぬ者なかりたり

サハリン島は南ほどよし 東よりは西側がよし 夏のジャガイモ

囚人を入れて拓ひらきし島なれど 南部捨つる日遠からずあり
                             日露戦争とその結果としてのポーツマス条約


   チェーホフ『サハリン島』(その3)   2011年1月       

娯楽劇ボードビル得意に紡ぎしチェーホフが ペンの力で網掛けし島

日本につぽんが千島を選りて捨てし島 露国万余の棄民を送る
                                          
一八七五年の樺太千島交換条約
不正義を糾さむチェーホフ 極東の地獄の沙汰を見据えて綴る

なにゆえに先住民消えし村の跡 かしこに残るや 問えばわけあり

北海道は和人がアイヌを圧し払い アイヌ逃げ来てギリヤーク圧す 

サハリンの先住民あまた死にしこと 入り来し病の猖獗ありしと
                        
※  一八五八年の天然痘など
絶望のはての堕落を救うもの 「そは子供なり」 チェーホフの背骨

囚人に子供が生まれ慈しみ ただし食無く育つに難し

運ありて刑を若きに終ええしは勇み島去り 余人死を待つ

医師にして小説家ひとりの長き旅 熾火おきび掘るごと希望を問わん

帝政の1890年はかくありし 革命成りなおラーゲリ残る
                                              
※  ソルジニツイン『収容所群島』
連行の朝鮮人に石炭を掘らせしこの島 昭和の戦いくさ

時移りガス田豊かなサハリンへ 稚内より定期船ゆく

チェーホフの対面調査カード幾千 今もありしと 千年残れ                       

                              2017年1月 再校正


李恢成「サハリンへの旅」 その他

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