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おおむね書き込み終了。最新は 4 黒井千次 の補足記事である 11 『春の道標』です。2012.9.05.
「老人文学論」鈴木斌著を読んで

我ら戦中戦後生まれ世代は、本人の気概はさておき、順次還暦をすぎ、古希の域に届いた者も少なくない。著者もその一人であるし、これを書くボクも著者とは同世代。

さて、「老人文学」とはいかなる定義に基づくものなのか、が気になるところであるし、本書もそこから始まっている。

本書には @老人
描いたもの−−例・
有吉佐和子『恍惚の人』と A老人書いたもの−−例・松田道雄『安楽に死にたい』
がある。

また小説以外にも、6章、7章のように評論家の発言や著作を論じる章もある。

自分も読んだことがある本は特に面白く読めたが、多くの未読書のどれもていねいな記述がなされていて、飽きずに読み終えることができた。
昨秋著者より恵送の一冊。 菁柿堂 2011.11.03発行
著者の紹介、奥付には、「1943年、東京生まれ。/法政大学文学部日本文学科卒。/文芸評論家、日本社会文学会会員。」と紹介あり。以下、多くの自著作の紹介もある。

以下は全10章の題目と、幾章かについてはボクの全く主観的なミニコメントです。
 
1 老人文学の嚆矢とはーーー有吉佐和子『恍惚の人』ほか  

鈴木氏は他に岡本かの子『老妓抄』・林芙美子『晩菊』を先述し、老人問題を現代的問題意識として取り上げるには先駆性はあるもののまだ弱く、表題の有吉佐和子『恍惚の人』その名に値するものである、とする。

有吉佐和子は作家活動中は「才女」としてもてはやされながら、作家活動の油の乗っていると思われていた晩年2作執筆のころより作品の重さに自ら押しつぶされるように精神に変調をきたし、最後に自死を選んだ。

 只今改稿中

2 舅と嫁の愛の背景にある戦争とデカダンーーー 川端康成『山の音』

川端のこの本は学生時代に読んだままであったが、印象がぼんやりしたものに後退してしまっていたので「ああ、、、こんなふうに読めるのか、、、」と再読してみる気になった。ボクは結婚前であったが、家庭内で「夫婦」以外の人間同士も性にかかわる部分でいかにか関わることをうまく書いているな、、、と感じたことを思い出した。

当時(なんと!47年前)、友達(女性)から「なんでそんなの読んでるのよ」と、少しかまわれた



『山の音』とは関係ないがこの彼女はドイツに留学し、ドイツ人と結婚し、こどもをもうけ、そのあとボクや友人たちとは音信不通になった。最初に留学したのは由緒正しき大学町のフライブルクであった。

 ・ ドイツにはブルクと名の付く町多し 今ごろどこかのブルクのきのこ
3 老人文学としての辻井喬の小説ーーー辻井喬『終わりからの旅』『虹の岬』『父の肖像』

『虹の岬』は、はやふた昔にもなるだろうが、三国連太郎主演の映画を見てすませた。
映画より前、鹿児島を歩いた折にはこの小説のモデル川田順の歌碑を2つ(佐多岬=展望台下・野間岬=ロラン局の先)訪ねたこともあったが、川田に独特に美化された「天皇」観があることはこの本で分かった。
短歌では現在川田の歌がどのていど読み継がれているのかがよくわからないし、ボクも断片的に、山を詠んだものなど何十首かを読んだことがあるはずだ、と思う程度だが、往年は歌壇の有力歌人の一人であった。
が、今はゴシップ「老いらくの恋」あたりが面白がられているようで川田には気の毒なことだ。
辻井がなんで川田をモデル小説に使ったのか、ということでは天皇論にからんでいるらしい(映画ではこのことはよく分からず、代わりに、住友を他の財閥のように戦争に深入りさせずに守った功績を最後に印象付けている)のであるが、手短に書きづらいので割愛。

いま読んでみての感想 2014/12/19辻井喬 虹の岬   『虹の岬』中央公論社 1994発行

とうとう読んだのであった! 就眠前の少しばかりの時間を、数夜をかけて。今は中公文庫にもあるようで、そのほうが寝床で読むのには楽であったが、偶然、地元図書館で目にとまり、単行本を借り出した。

一番の印象は「映画はこの本の物語を相当に組み立て直していたのだ」ということ。
三國連太郎・原田美枝子が主演した映画は、純愛・不倫の物語として映像も美しく描かれているが、原作を読むと、川田順の住友での存在の仕方=職業観が繰り返し叙述されており、作者自身(堤清二)の企業経営者としての矜恃がどのあたりにあるのかを、問わず語りに語るものとなっている。

また、軍部主導の統制経済への反発と住友退社の経緯は、それほど仔細ではない。

歌人としての川田順については、一応の評論にはなっているが、記述が散漫で通り一遍の印象が残る。作風の変遷が概念的な大づかみさを抜けておらず、それぞれの局面をよく表す短歌の例示がもっとあってこそ、「戦後」という一時代を代表し、かつ、今は忘れられつつある歌人の実像を伝えることのできる評伝になったのではないだろうか。

ということは、「小説家・辻井喬」のこの一作の眼目は、企業人と文学者(主には短歌)という二足の草鞋をはいて両立を成し遂げた先達への敬意がひとつ。

もう一つは、人間の愛欲という業への省察。これは近代文学の最大テーマであるだろう。ここにも作者=私人「辻井喬」の立場からの、心寄せるに値するほどの女性像のスケッチがなされ、当然にも、それと対になる男性のあるべき形の提示にもなっている。

社会制度的(キリスト教的倫理規範)枠組から逸脱しながらでも、一度限りの命を生ききろうとする人間のエロスを肯定しておきたい、という衝動を、伝記小説という器を使って表現しようとしている。従って短歌作品への考察を主軸とした「歌人・川田順」の評伝では全くない。むしろ本物の企業人のあるべき姿として、川田順への敬愛がこの一作を書かせた、とでも言う方が正鵠をえているのかもしれない。

鈴木斌氏が『老人文学論』中に指摘している「川田に独特に美化された「天皇」観があること」の部分は、今回の読書で了解できた。川田は現在の天皇には戦後間もない少年期(皇太子)に、短歌の手ほどきを行い、彼はその不倫事件でその任を五島茂に代わり離れた。この役割において祖父は明治天皇に仕え、家系への誇りと、敗戦による失意を深めていたのであった。

川田の歌柄の大きな叙景歌は、かつては広く認められるところであったし、その景が詠まれた土地の多くに歌碑が建立されもしたが、今日、川田順の名や歌が膾炙されることは希である。

ちなみに手元の数冊(下記4冊)を書架から引き抜くと、はじめ三冊において川田の作品の収録は確認できなかった。あとの二冊には載る。

講談社学術文庫 『高野公彦編・現代の短歌』1991発行
国文社 現代歌人文庫 目録(第一期30巻・第二期既刊7巻)
本阿弥書店 『現代短歌をよみとく』岩田正 全30章対象歌人  2002発行

本阿弥書店 『昭和短歌の精神史』三枝昂之 2005発行  この本では評論の対象歌が散見できる。

小学館『集成・昭和の短歌』岡井隆【編】 1995発行 この本では窪田空穂、会津八一に続く3人目として百首ほどが載る。(伊藤一彦選) 

より多くに当たるいとまがとれないので以上としておくが、今日的時代気分において、人口に膾炙するには馴染みやすい歌が無いのかもしれない。ボク個人は彼の叙景歌何首かは好ましく感じてきたのであるが、、、もう思い出せないなあ、遠路わざわざ訪ねていった鹿児島の野間岬と佐多岬に建っている大きな歌碑に彫られた歌を。

川田順の短歌鑑賞 2014/12/28
小学館『集成・昭和の短歌』岡井隆【編】 川田順は伊藤一彦が選出、中より

       『鷲』 (s15刊)

劔岳深碧空ふかあおぞらに衝き峙ちてあな荒々し岩に痩せたり

高やまのいただきにして真夏日は上汚うわよごれせる堅雪かたゆき照らす

立山が後立山に影うつす夕日の時の大きしづかさ

山空をひとすぢに行く大鷲の翼の張りの澄みも澄みたる

大鷲の下りかくろひしむかつやま竜王岳は弥いや高く見ゆ

寄る浪の飛沫しぶきの搏てば鴨鳥の或は啼きて岩すりて飛ぶ

国のため戦争いくさに出づるますらをの親は人混みにもまれて行きぬ

じつと考へ額ひたひに汗が流れきぬ日露戦争よりも大きくならむ

少年団の喇叭の声は整はず汗をたらして吹きつつ行けり

この駅を今発つ兵の顔見れば皆吾児あこよりも若きが如し

長篠のいくさの日にもこの部落むらは夏蚕なつこひけむ今日のごとくに

相変わらず鎗刀やりかたなにて勝つものと弾丸たまへ飛び込みし甲斐の勢せいはや

智略乏しく滅びし者の跡に佇てり汗ふきながら憤いきどほろしも

 * 戦後、川田は戦争賛美を詠んだ歌人の一人という言われ方をしたが、上掲7首目以後の7首を詠むと、戦争協力者としての十把一絡げは間違いのように思う。第7首目などは木下恵介『陸軍』中のクライマックスシーン、すなわち見送りの群衆に阻まれながら懸命に息子を捜して走る母親の姿に重なる。

           『東帰』 (s27刊)

樫の実のひとり者にて終らむと思へるときに君あらはれぬ

夏山の夜よるの青さに見惚れ居りそのふもとには君が家あり

山家集に一首すぐれし恋のうた君に見せむと栞しをりを挿む

相触れて帰りきたりし日のまひる天の怒りの春雷ふるふ

事なしに生きむと願ふここにさへ世の人言ひとごとはなほも追ひ来る
  


『父の肖像』は出た当時読んだ覚えがあるが、堤一族物語としては実交えたものを読んでも始まらないような、作りすぎた感じがした。
けれども、彼には己の
出生への深いわだかまりがあって、今もなお一族への反発心や、自分探しの旅を続ける(全く比喩でなしに)理由になっている。本書は冒頭、父親の郷里の一員には混じりたくないことを夢中独白の調子で語り出す。
以下、同じく冒頭部分、自分が中学(旧制)三年の時のこと、父のことばである。
「世間にはわしの事を不身持のように言う奴がいるが、お祖父さんから預かった楠の家を守っていくのは並大抵のことではなかった。お前も大人になれば分る」
かれは少年時代にあったこのことを、
その「不身持という(父の)ことばが私には分らなかったのである」といったんは書く。
そして「それが、、、分かったのは大学へ行くようになってからだ。そうして、その意味が分ったとき、私は父が嘘をいたのだと直感した。」
また、戦争と天皇制が本作の基底部に置かれていると鈴木氏が指摘するが、あらかじめそういうことに十分注意を払って読み進めば、作中主人公の唐突な決意も、心情的にはわかるのかもしれない。実人生の不本意(セゾングループの破綻)は全部ガラガラポンで放り出したい衝動を伴うものであったかもしれない。
若いときに彼が共産党員であった(これについても「父親への反発心が大きくはたらき、、、」と語る)ことが、時代を風俗表現する方便としてではなく、彼の思考回路に今も大きな影響を残していることは、この本を読めばあきらかであろう。 
       講談社 2004/9/30発行

  1. 再読しての感想 2012/02/29

鈴木氏が書かれたことを念頭に置いて読んだわけだが、やはり、天皇制のことは文脈においては薄いと思う。父(文中=橘治郎・本名=堤康次郎つつみ やすじろう)は保守二党合同(=55年体制・これによって自由民主党が誕生)の力学から少数派におりながら衆院議長に就いた。このとき、天皇に挨拶するための参内に際して戸籍にない実質上の妻を伴ったことがゴシップ沙汰になりかける失態があった。彼にとっては生涯にわたってやまなかった放埒な女性関係の中での小さな躓きにすぎず、作中でも父には「とりつくろい」だけが必要であったようすが書かれている。
正妻(作者=恭次の育ての親)からは、戦前、夫が斉藤隆夫が「粛軍演説」や「大陸政策批判」を行った等のことから議員除名となった際、節を曲げて斎藤除名に賛成票を投じたことや、続いて翼賛議員となって保身に動いたことに反感を持たれ(著者の見方)、長く別居中になっていたのであった。
この「愛人問題」もみ消しにひと働きしたのが作者であった。しかしこのあたりを含め通読してみて、天皇制に醒めた見方はもっていても、強い葛藤を感じさせる場面はなかったように思う。(作者の本心や、やっかいごとを書かない知恵の有無はわからない)

やはり、共産党活動家の体験(これは天皇制の裏返しのやっかいごとであるだろう)は、作者にとって、もう一方の物差しとして生涯を規定してきたらしいことを窺わせる既述が随所にみられる。彼がある種の倫理観を企業経営者になってからも捨てきれなかったことが、あるいはその若き日の真剣で貴重な体験が彼の矜恃であったことが、率直な記述として随所に見られる。若いときから詩を書いてきたり、車谷長吉が世に出るまでのある期間をセゾン本部に抱え養ったような事実が自ずと想起されよう。

さて、私小説の宿命、書かれた側がこの作品中のモデルとして一役買わされていることを嬉しく思うのかどうか、、、。僕の勝手な推測では、書かれたことを、文芸というものへの余程の理解者以外は全く喜ばなかったに違いない。
本人(辻井)が自分のことも十分客観視しつつ、身辺の人間をいくら公平に書いたつもりであっても、父以外の者へも相当に辛辣であり、書かれた側は「あることないこと勝手に書きやがって」と感じるに違いない。身辺実在、特に生存中の人物を書いてしまうことには私小説タイプの作家の「大変さ」というものを感じる。

最後に、作者が父を、本当はどう思っていたのか。
表のアナウンスとしては父親への反発が色濃い。その一つは自分の出生の謎のことがあるだろう。
本人にも周辺にも早逝した父の弟夫婦の子と説明されていた。それを否定できる具体的なモノがあるわけではないものの、本当の父とは叔父ではなく今の父そのものではないのか?
また、実母も叔母ではなく、表には出せない若い女性に産ませた子であった(かもしれない)という疑いがあった。
加えて、横暴な家父長としての一族支配の理不尽さ、ということも事実であり実感であるだろう。
しかしそれは本当にそうなのか。
作者は、父が衆院議長に就任したことがきっかけで秘書として協力するようになって以来、曲折を経てコンツェルンの一翼を任されるようになり(兄弟中で一番父の信任を得た)、実は深いところで父を敬愛してやまなかったのではないだろうか。
そもそも、嫌いな者の像を手間暇かけて、おのれひと世の名残として描ききるだろうか? 彼はこの長編を書くことを通じて改めて育ての父(実父かもしれない)への思いがどの程度かには改まったのではなかったのか。

作品としては、余分の重複など気になるところもあるし、前半が無味乾燥(歴史テキストのような)のきらいもあるが、半ばにきて作者が成長してからの、自身の記憶に基づくディテールが増すににつれて読み物として面白さが出てくる。

本人、堤清二は1927年生まれ、著述期間は不明だが早くから資料収集の準備があったと思われる。単行本に先駆けて某文芸誌に連載された上で2004年に初版が出た。この年76歳だったと思われ、十分老人文学であると言えよう。

 恋に生きる老いーーー黒井千次『高く手を振る日』


評者鈴木氏が作品に与えた評価はたいへん高い。

以下は僕の気ままなコメントです


「本当の大人」が酸いも甘いもかみわけて実人生を渡るには、世間知の学習=失うものを持っているという帰属階層への自覚といったものが必要だろう。そういうものから外れることなく世渡りをしてきてシニア世代それもその後期へ仲間入りした中産社会階層上位の人間が、異性同士の誘惑というテストを受けたとき、その合格点とはいかなるものであるのか、という中編小説である。スバル360

黒井千次(=ペンネーム 1932〜)は父親が最高裁判事、1955年東大経済学部卒業、富士重工入社、という出自を持つ。
『働くということ』講談社現代新書1982年刊には右写真の試作車※が工場敷地内をポコポコと白い煙を吐きながら走った日のことが、みんなと一緒に一つ事をなしとげた高揚感として、高校生(この本が想定する読者)に提示されている。

  ※ 試作車第一号完成は1957.4.20とされる。
しかし実際はというと、彼がいろいろな意味で小説家と企業人の2足のわらじが履きにくくなり1970年に退社。その際、会社の上司から「社業に専念できない人物を会社は雇うつもりはない」と言われたという。
かれは、すでに15年間2足のわらじを履いてきたうえで、筆で食える見通しをたててから退社し、会社の方も「新日文」あがりの物書きは常々やっかいだった(はず、作品内容から推測して)ので清々したことだろう。ちょうどその当時 執筆していた『走る家族』(僕は河出文芸誌『文芸』で読んだ)はマイカーに乗ってドライブに出たマイホーム家族が、どこに向かって走っているのか自分たちで分からなくなる、という結末であった。都市の中流階級が高度成長の恩恵を受けてマイホームや大衆車を手に入れ、ささやかな幸福感にひたっていても、先々、彼らに何かが見通せているわけでもない様が暗示的に書かれている。(大衆 車とはいうものの、70年頃にはまだ庶民にとりあこがれの乗り物だった)

表題作『高く手を振る日』は初出が「新潮」2009年12月号、という最近の中編。テーマはいわば老人の分別とは何かというあたりで、現代性がある。単行本は新聞書評も好評でかなり売れた様子がある。僕が初版3ヶ月後に購入したときにすでに第7刷であった。

筋はこうである。
主人公(浩平)の学生時代に、彼のゼミには少数の女子が加わっていた。ゼミ内では互いにそれとなく親しかったものの、「あれがキスだった」のかどうかもはっきりしないままに、彼女(重子)の方が普通の会社員と結婚してしまう。浩平は卒業後、同じゼミ仲間の別の女性と結婚していた。
それきり彼女(重子)のことを忘れたかのようにして時が流れた。重子の夫が亡くなった、とのゼミ仲間からの知らせにも悔やみの手紙ひとつ出すでなく、そのままにしてきた。
それが、偶然が重なって再会するに至るところは話しの筋の設定に無理を感じたが、偶然とは普通にはないことなのだから、お伽話めくのは仕方がない、、、ということか?! 
浩平のほうもすでに妻に先立たれていたが、たまに父親の手助けにやってくる娘の手を煩わせて始めた不慣れな携帯メールのやりとりを重子と何度か重ねるうちに心の回路が繋がっていく。70歳を超えた老人のぎこちない、異性を意識したためらいのあるメール操作の描写が、リアリティとユーモアがあって、このあたりは巧みである。
こういう、焼け木杭に火がつくような話しがうまく育つのかどうかはわからないが、おぼつかなくも育っていく様子を、作品中では、出窓に置いた植木鉢に育て始めた葡萄の挿し木の伸びていく姿として読者に示す。葡萄の苗はもっと日当たりをよくすること、そして地面に下ろすなりもっと広いところに出してやり、支柱で支えることなしにはうまく育っていかないだろう。
また、浩平が会社時代の上司から「最近自宅を増築したから遊びに来ないか」とよばれ、いざ訪問してみれば増築した様子が全くないばかりか、上司夫婦の老いというものの哀れを見届ける結果となってしまう。先輩夫婦はすでに認知症の症状を呈しつつ、危うい綱渡りごとき生活を送っていたのであった。食べ物の管理も、火の始末も、、、二人で助け合っているように見えても、本人たちに健常者の判断能力はすでになかったのである。老いてしまった男女が「手を取り合って幸せに最後を迎えること」などは、理想ではあっても現実的には夢のごとくあてにならない。まして浩平たちには互いに夫婦として人生の終末を迎えようという、苦楽を共にしてきたような同行二人の必然性が存在しない。 どちらも配偶者に先立たれた孤独者なのだ。

堅実な世渡りをしてきた浩平と重子が、おのれの老いを自覚しつつこのまま「茶飲み友達」を続けるのか。作者は重子に「茶飲み友達という言葉は わたくし嫌いなの、、、」と言わせている。

結末は、、、まあ小説とはお伽話なのですから、、、気持ちよい余韻のある結末を、ということにしておこう。
でも、やっぱりそれでも、老人ながらにご両人ともケータイを持ちメールが交換できるのだし、車の運転ができなくても電車もバスもあるのだから、そんなに慌てて決着をつけなくても、、、とぼくは思った、が。


黒井千次は1932年生まれで2009年執筆なので執筆当時77歳、「後期高齢者」の老人が手さばき鮮やかに老人を描いた老人文学 なり。

新潮社 2010/3/25発行 

5 『〈介護小説〉の風景』の鋭利さと錯誤ーーー青山光二、耕治人の老人文学

  記述割愛  

 上野千鶴子の「老人介護文学の誕生」批判ーーー佐江衆一『黄落』と円地文子『女坂』の「老い」の世界

  記述割愛

7 医師が願う終末期医療ーーー松田道雄『安楽に死にたい』


松田道雄(本名 1908〜1998)は 89歳で亡くなったが、晩年87歳でこの本を書いた。中・高年の我々にとってはもともと岩波書店、筑摩書房などが出す本の書き手として著名であったし、一般商業紙でもおなじみであった。
僕はこの本を読んでいなかったが、本書で鈴木氏が適宜引用を加えながらの評論で、内容がとてもよく分かったような気がした。けれど、これも「老人文学」というものなのかどうか、「文学」という語感にたいして若干の違和感があった。エッセイとして読むと言うことなのだろうが、エッセイにしては論じすぎていないか。鈴木氏の最初の引用部分(鈴木氏=茶文字、松田氏=青色文字)は次のようなものである。

最晩年は無為に過ごす
老人といっても個人によって精神や肉体的な状態は一様でない。松田道雄『安楽に死にたい』(平成9年、岩波書店)は医者であり文筆家であった著者が87歳になつて書いたものだ。この年齢は人生の最終段階である。そこに至った時、人間は精神的、肉体的にどのような状態になっでいくか。それを次のように書いている。
「お医者はわかつてくれない」
87歳という高齢になって、私は特養にいる何万かの、生きているだけの人の気持がやっとわかるようになった。
朝、本を読もうと思って、ソファに腰をおろし、以前ならすぐに読みはじめたのに、何もしないで、ぼんやり雲のたたずまいを眺めて半時間も一時間もすごすことが多くなつた。生きづかれたというか、医者のいう全身倦怠の感はあ る。だが、何もしないでいることも気持いい。(中略)
人間はどこかに痛みがあるのでなかったら、ぼんやりと休んでいるのが快であるようにできている。

高齢になると個人差はあるが、八七歳ともなるとかなり肉体的、精神的に弱ってくる。その中で、「何もしないでいることも気持いい。」と著者はいう。このような状態を述べながら、その生きようを積極的に肯定している。

以上は序論である。
かくゆう、ぼくの妻の母(1910年=明治44年、2月生まれ)が今年(2012年)正月松の内に亡くなった。もうちょっとで102歳の誕生日を迎えるところであったので、葬儀に際して早手回しに102歳の誕生日を祝ってから葬儀に臨んだ。そういう未練の行為は、遺族の無念か、もしくは「よくぞここまで長寿をしてくれました」の感謝の気持ちだったと思う。

けれども、この6年間(5年10月あまり)彼女の実際は、昏々と「眠り姫」であった。驚くべき省エネぶりを会得していて、呼吸など30秒に一回ぐらいで医師も家族もそれが当たり前のように慣れてしまっていたほどである。手や足はいつも冷え冷えとしていた。栄養は過不足なく鼻から胃へ届くチューブで送られていた。

こういう最期を、すでに意思表示の機会を逃してしまって死を待つだけの本人が望んでいたのだろうか、、、

評者鈴木氏、著者松田道雄氏が共に論じておきたいのはこの部分である。松田氏は自分の死を予期して,「我が事」としてはいかなることばを世に残したか。

この本題の核心部分を、急いてココに書かないことにする。(読んでおいて決して無駄でないことは請け合うけれど)

今日から明日へと、死に向かって行進中でない人間はいない。その全き事実を、忘れたり、考えないことにしてその日を過ごす人間もまた少なくないにせよ、歌人で医師だった斎藤茂吉の場合は「除外例なき死」と硬質のコトバを選んで短歌に詠みこんだ。伝統表現で言えば(カテゴリーが大きすぎるが)無常、、、蓮如お文に出てくる「無常の風の吹くとき」であろう。
ぼくは「のんきの父さん」でいこうとしているから、妻の母と同じように自分の命の始末は若い家族に一任します。「無理は無用」とだけはすでに言ってある。

  随筆集『花の百名山』で知られる田中澄江に『夫の始末』(講談社、1995年)という身辺雑記帳のような一冊がある。なかなかの題だったので出た当時読んでみたが、ぼくにはその内容より筆達者が気になってしまった印象が残っている。ここに表紙写真だけでも、と思って捜してみたが、今となってはどこかに紛れて出てこない。夫婦共白髪は良いことなれど、同時には死ねず先に逝く夫(妻)の始末をして、次に自分の始末をつけなければならない。この、後に回ってしまった側が自分で自分の始末をうまくつけることは容易なことではない

**  松田が「老人が本来行使可能な権利」として、コトバに難があるものの「自殺の権利」までを、本書では言及。人類の幸福追求権には自己の身体始末権も付随して存在するはずである、と言っている。芥川龍之介『河童』は胎内からこの世出ていこうとするときの選択権。松田の、ここではこの世からあの世へ出ていこうとするときの選択権。前者はこの世のしがらみ以前、後者はしがらみから抜けていくとき。
伊藤左千夫『野菊の墓』では嫁ぎ先の死の床で恋文を握りながら逝った。これは家父長制への抗議である。松田が自殺する自由を言うのはいくつかの宗教的規範に対立するが、あるいは日本では許容する土壌があるのかもしれない。何しろ近年15年間に公的に把握されているだけでも50万人を超える自殺者がいる。(松田が述べるのは特定条件下のことであることには留意) 
最近、関連してふと思い当たることがあった。彼は大変良識的(世間との折り合いのできる)人間であった反面、思考の幅の広さは見かけによらないものであったに違いない、ということ。
筑摩書房『現代日本思想体系』全35巻の第16巻は『アナーキズム』であるが、この巻の編集が松田道雄による。刊行が1963年で遠に絶版。もちろんぼくは読んだこともないし、それを知ったのはつい先日のことだ。

浅羽通明『アナーキズム』ちくま新書 2004年刊 に、こうあった。
彼(松田)による解説、「日本のアナーキズム」を超える近代アナーキズム概説は今なお書かれていない。収録されたのは「堺兄に与えて政党を論ず」(石川三四郎)・・・・中略・・・・「政治の中の死」(埴谷雄高)の各編だった。・・・・中略・・・・当時、大学ではまず研究の対象とされなかったアナーキズムの巻を(筑摩が)松田に担当させたのは慧眼というべきだろう。松田は、秋山清、大沢正道らに資料提供他を依頼、彼らへの思想への挺身、知的誠実さへ深い理解と敬意を示しながら、しかし一巻をアナーキズム礼賛の書とはしなかった。・・・・後略。〕 
自由と規律や道徳の間での際限なき葛藤、これは文学最大のテーマであるだろう。
 

8 定年退職からの出発ーーー永井龍男『一個』・三田誠広『団塊老人』・渡辺淳一『孤舟』 

  記述割愛

 9 城山三郎の晩年と国家ーーー『大義の末』を中心に


 ぼくは、週刊誌の連載などで時に見かけて城山三郎の名を知ってはいたが、「企業小説をよく書く作家」あるいは『落日燃ゆ』(広田弘毅伝)が評判になった程度の認識で、きちんと読んだ記憶があるのは『辛酸』(田中正造伝)一冊のみであった。

しかし鈴木氏のここでの文章は驚くべきものであった。
以下がこの章の冒頭5ページ部分の抜粋である。


    城山三郎の叙勲辞退の意味

 「小説新潮」平成二一年一月号の城山三郎「勲章について」のエッセイの再掲載〔初出は「別冊文聾春秋」平成四年夏号〕は感動的である。
 −中略−
 文化庁から「シジュホーショー」の叙勲の内示があったが即座に断った経緯を書いたも
のだ。この賞を受けるか否かを返事してほしい、との文化庁からの連絡を今は亡き妻が自宅で受け、彼女は自宅から離れた仕事部屋にいる城山に伝えた。妻は城山が受け入れるだろうと予想していた。
 だが彼はその夜の妻との外食時に「役所に査定されたくない、役所に口封じされたくない……」、また「物書きの勲章は野垂れ死というじやないか、」との理由で断ると妻に言った。この叙勲を辞退する城山の理由の最初の部分は妻と食事場所で会う前に考えたことであり、後の部分は妻と会ってから考えた言葉だという。
 この二つの言葉は城山が文学者の矜恃として国家からいささかでも管理されるのは拒否するとの信念から発せられている。さらに後者の言葉は前者のような意思によって、国家から不当に弾圧、あるいは困難な状態に追い込まれたとしても作家として、この信念によって泰然として生きていくとの覚悟を表している。城山が六五歳のときである。晩年に入り始めた頃である。
 彼がこのような態度に出るには少年の日の海軍体験にある。それを晩年に至るまで反芻しっつ個人と国家の関係を追求してきた結果である。


     晩年に至っての国家との対決

 城山三郎に「天皇制への対決」(「婦人公論」昭和三四年六月号、現在、佐高信編『城山三郎の遺志』平成一九年、岩波書店)という短いエッセイがある。これについて同じく佐高信が『城山三郎の昭和』(平成一六年、角川書店・平成一九年、角川文庫)の「『大義』の著者の悲しい運命」で、城山の文章を紹介しながら、その意味することを論じている。それはかなり要領を得たものだが、概括に終始しているので、城山のこの文章の意味することについてみていきたい。
 このエッセイで城山は平成天皇の皇太子時代の結婚に際して世間が異常に慶祝ムードにわきたっている空気と、それを政治的に利用しょうとしている一群の勢力に対して批判している。その批判の根幹にあるのは天皇制のありようについて城山が長い間考えてきた深い思いがあるからだ。
 具体的には皇太子の結婚を機に、天皇道路を新たに作ろうとする動きや都内の野犬狩りや、さらに国政選挙において選挙違反をし、有罪となった者に対する恩赦が行われたことなどに対する批判である。それを城山は「国民の許さぬものを、『ご成婚』のゆえに許す。国民の耳目を上からスッポリ蔽いかぶせるものとして、天皇家が利用されている。『天皇家の名を出せば』という考え方が、実際に行われはじめたのだ。」といっている。
 しかも天皇家を尊敬するとの錦の御旗を立てて行われている。そして皇太子の結婚の祝いに便乗して、自分たちの政治的な悪事を糊塗している。−中略−
 皇太子の結婚をめぐって政治家がこのようなことをするのは、かつてのアジア・太平洋戦争において、政治家や軍部が天皇の名のもとに国民を戟争に駆り立て、兵士、一般人を問わず多くの尊い人命を奪った。その構図と同じではないか。
 中でも当時の日本の男性はアジア・太平洋戦争がアジア解放の聖戦であるとの時の国家の喧伝を盲目的に信じ、あるいは信じこまされ戦場に出ていった。少年であった城山も例外ではなく海軍特別幹部練習生として積極的に志願し海軍に入った。しかし、その海軍の実態は日本国を窮地から脱するために自己の生命を賭して闘う崇高な目的をもった集団でなく、訓練と称してリンチ、虐待が横行していた。そのため彼はそのような海軍の状況に絶望するとともに、このような軍人が戦っているこの戦争について強い懐疑をもつようになる。聖戦の名の下に日本は戦争しているが軍隊の実態は醜悪そのものだったからである。
 −中略−
 周知のように日本の軍隊の醜悪さは大岡昇平が『停虜記』『野火』『レイテ戦記』で緻密に書いている。ただし大岡の場合は三〇歳代半ばの中年になってから不承不承で出征しているから、戦争はもとより国家、軍に対して最初から批判の目でみている。そのため、いざ戦場に行って過酷な体験すると国家や軍に対する批判は一層、熾烈になる。少なくとも戦争、国家、軍に対して、いささかも幻想を抱いていない。それどころか召集以前から絶望している。
 それに村して城山の場合は戦争末期に一七歳の若さで陸軍に志願し不合格となり、翌年、海軍に志願入隊しているのだから、皇国思想を純粋に信じている。学校や周囲の環境が皇国思想に絡め取られていた時代に城山のような若い純粋な魂が国家、軍、世論の軍国主義化に対して批判的になるなどは無理である。        −中略−

        杉本五郎中佐『大義』が城山に与えた真の影響 

* 以下の核心部分は割愛、とするが、この見出以下が本論である。
 軍国少年城山が愛国心を鼓舞された杉本五郎中佐『大義』には、彼には気付くことの出来なかったメッセージが隠れていたのだった。検閲によりこの本の肝心部分が伏せ字で覆われていたからである。
 
 城山『大義の末』は読んでおくべき一冊かも知れない

                           以上  2012/04/20 本章記述終了
   

10 老人文学の二つの道ーーー芥川龍之介・谷崎潤一郎・佐野眞一の方法

  記述割愛          以上全10章終了

11 別記 黒井千次『春の道標』 1981発行 新潮社 (初稿「新潮」80.11号
                先掲4 恋に生きる老いーーー黒井千次『高く手を振る日』の補論として



 ここに
本の内表紙をのせた。
僕の最後の正規勤務校で、書架整理のときに捨てられてしまうのを惜しんで貰っておいた。表紙の外カヴァーは配架の際に外してしまったらしい。朱色の布表紙むきだしのまま閲覧に供されていたために背の退色が著しい。本文が職人仕事の香り立つ活版印刷で刷られている。貸出票によっても、手のこなれにおいても、誰かに読まれた形跡が全くないバージンで、書架に20年間ただ挟み置かれたままであったようだ。
家に持ち帰りそのまま10年放置していたが、やっと読むときがきた。読んだのはついこの3日ほどで、昨夜読了。

これは人生の入り口(性の目覚め=初恋)を描く。僕にすればようやくこういう本がしみじみとした気持ちで読める歳になった。先掲黒井千次『高く手を振る日』が人生の着地を描くのと全く良い一対をなす作品であると感じた。

作品論として書きたいことも読みながら種々出てきたが、傍線・メモなど一切煩うことを避けて通読を優先したので、ここに若干をメモのつもりで気付いたことを書いておくことにする。

黒井の経歴の詳細は知らないが、基本的に自伝的色合いによってディテールを描き込んだ作品に間違いなかろう。作品時間において、彼は公立男子高校二年生、来年は男女共学に改められる年に当たる。ただの幼なじみとして親しかった「女の子」が、女子の方が早熟であるために主人公へ異性であることを自覚した関係を求め始め、彼女からのモーションに戸惑い、悩み、いわばボタンのかけ違いが起こってしまう。

一方で、そのころ通学中の偶然から、気持ちが惹かれ、願いが叶い心の通い合いが始まる中学三年生ができる。主人公の初恋はここに始まった。少年はその恋人を自分の通う高校に入学させて、交遊をより深いものへと進めていきたいと希求するようになった。

(中略、作品の山場を摘まみ食いはやめておくことに)

しかし、この恋は真剣でもあったが、妄想と懐疑ににも振り回されることになる。

たいていの男子の初恋がたどる(普通にどこにでもある)苦い思い出として、主人公(黒井の分身)によって回想され、読者からは「そういうことだよね」と共感されていく作品であったことであろう。

だからこれは晩年の生き方のモデルを指し示した『高く手を振る日』と対をなす、人間の理性を肯定する作品である。申し分なく黒井千次の人格の投影でもある。またおおかた、平凡なというよりは、危なげのない人生を送っている中流階層以上の庶民の現実でもある。

もいちど「だから」を重ねるが、黒井の小説は「だから退屈だ」ともいえる。それぞれの読者が文学に何を求めようとしているのか。もっと面白い本を読みたい人々からは、お金を出してまでは買って貰えないかもしれない。しかし執筆が1980年ではあっても、1950年ごろの東京近郊の人々の暮らしの様子が彷彿とされ、巧みな文章からは戦後間もない頃の時代の匂いというものがたちあがってくる。ぼくの兄貴格の世代の人々のリアルにたち動く姿がここにはあって、自分には面白く読めた一作であった。

  

 
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