若山牧水と暮坂峠道 後編
暮坂峠を下るところから(現在の行政エリア)中之条町側に入ったことになる。沢渡温泉・中之条町へとたどる中程で、右手、谷(上沢渡川)の向こうにニョッキリと岩山が目に付き、「大岩地区」である。
名称は
「旧大岩学校(牧水会館)」。
![]() 今回旅行でぼくが見た最後の牧水歌碑であった。 碑面 大岩村にて 大正十一年十月二十日 若山牧水 人過ぐと生徒等はみな走せ寄りて垣よりぞ見る学校の庭の われもまたかかりき村の学校にこの子等のごと通る人見き 牧水の心の底には望郷の思いがあるので「われもまたかかりき村の、、、」と詠むことになる。 学校にもの読める声のなつかしさ身にしみとほる山里すぎて (小雨村) ひたひたと土踏み鳴らし真裸足まはだしに先生は教ふその体操を (引沼村) この2ヶ村は現在の六合村に入る。牧水の足跡で言えば、草津から白砂川(吾妻川上流)の谷まで降りてきて着いたところが引沼村。次に花敷温泉の直前が小雨村。翌日暮坂峠に登り、下ってきてドーム型の岩山の前が大岩村。歌碑はここ大岩村での2首である。 10戸20戸の村を二つ過ぎた。引沼村というのには小学校があり、山陰のもう日も暮れた地面を踏み鳴らしながら一人の年寄った先生が20人ほどの生徒に体操を教えていた。 だから、「ひたひたと、、、」の歌の次にはこういう歌が続く。 先生の頭の禿もたふとけれ此処に死なむと教ふるならめ 小寒い晩秋の夕方通りがかれば、一人の老教師が子供と体操をしている姿が目にとまり、山村に骨を埋める覚悟をそこにみたような気持ちがして、哀惜の感を深めたのであった。 その後の足取りにもかんたんに触れておこう 牧水と弟子(作中K−君)は昔の人なので健脚だ。前日花敷温泉に寄り道しなければ泊まるはずの沢渡温泉には正午近くに着いてしまった。ある旅館の3階に通されたが、まずは 湯に入った。 無色無臭、温度もよく、いい湯であった。此処にこのまま泊まろうか、もう3、4里を歩いて四万温泉へ回ろうか、それとも直ぐ中之条へ出て伊香保まで延ばそうかと二人していろいろに迷ったが、終ついに四万へ行くことに決めて、昼飯を終るとすぐまた草鞋を穿いた。 この選択が予想外のものとなったことはすでに述べた。 いっぽうの僕らは沢渡温泉に宿がとってあった。けれども大岩学校のあと、日暮れには少々の余裕があったので、いまのバイパスからでは見えない温泉街を通り越し、牧水みたいに四万温泉まで行って戻った。僕は車だから簡単なことだ。 説明版には「県指定天然記念物 伊賀野のモミ 樹高約35米」とあるが、遠見の樹形からは頂上部分が欠けているように見えた。落雷か風折れを受けたものだろう。
肝心の四万温泉はそのどん詰まりの日向見薬師堂(国指定重文)を参拝しただけで、雲が暗く沈みときおり大粒の雨が落ちてくる中を、沢渡温泉に戻った。町に出かけていた旅館の従業員は、中之条町でバケツの底が抜けたような大雨にあった、と言っていた。 ぼくらが宿泊した「まるほん旅館」は沢渡で一番最初に湯宿を開き、すでに400年という
。本風呂は熱湯と普通湯の浴槽が一対あるだけ。ということはもともとは混浴だったのである。今は他に家族風呂と露天風呂が増設してあるが、女性が本風呂や露天風呂に安心して?入れるよう、時間で交代すべく決めてある。否、男の時間に女が入るのは自由だったかもしれない。湯殿に降りる階段の鴨居が昔サイズで、普通の身の丈のぼくでも額を打ってしまった。 ・ おけら鳴きやまぬ沢渡山の湯に
正門看板には「群馬県指定/重要文化財 旧吾妻第三小学校」と書いてあった。「まあどうせ、たいした資料もなかろう!」と偏見的に自分を慰め、門外から写真だけ一枚とって立ち去ることにした。
なんとしたことか! 帰宅後、
この本の終わり近く、『新編みなかみ紀行』を読む(初出=ベルク 2003年12月、94号)がある。一部を抜粋して追悼に代えたいと思う。 抜粋1,序 『新編みなかみ紀行』には、私が行ったことのある温泉、登ったことのある山や峠がたくさん登場する。、、、、その中から、詩二篇と、私が歩いたところが数多く出てくる紀行二編を選んで書いてみた。 抜粋2,「枯野の旅」 (私が歩いた) 12月の暮坂峠は、風花が舞い、この詩のイメージにぴったりのわびしい峠だった。79号の文末には「帰ったら『みなかみ紀行』を読もう」と書いたが、1995年に歩いてから8年ののちにようやく読んだ。、、、今の登山靴に当たる草鞋のこと、いつも持ち歩いた陸軍参謀本部の五万分の一の地図、、、必需品である磁石、、、。そして、一日歩いたあと、宿で温泉に入り、お酒をいただく楽しみで終わっている。この詩の中には、山登りのエッセンスがすべて入っている、、、。 抜粋3,「みなかみ紀行」 私は,「みなかみ紀行」とは「水上町」あたりを歩いた紀行文だと思っていたが、片品川、利根川の水源を行く旅であった。 続き、予定を変えた花敷温泉、暮坂峠、沢渡温泉、四万温泉を巡り、渋川でK−君と別れた。渋川で一人は野良仕事中の一人を加えたつごう3人で猿ヶ京を経て法師温泉に向かった。到着が暗くなったが歌友とは大きな湯にゆったりつかり、申し分ない一夜であった。けれど彼女はこう書いている。 私は、この温泉には、山から下りてきた時に数回訪れたことがある。三十年くらい前に、谷川連峰を縦走して下山してきた時はまだひなびた宿で、疲れた私たちを快く迎えてくれたものだった。しかし、その後、建物が立派になり有名になるにつれて、登山者は客とは思わなくなつたのか、一度入浴を断られてからは、立ち寄らなくなってしまった。 そうなんだ! あの「ディスカバージャパン」がいけないんだ。よくわかる。このあと吹割の瀧を見物し、丸沼で一夜を乞い、翌日金精峠を超えて日光湯本に下った。このときの鱒養殖場の番人との交流が僕はこの編の白眉と思う。 泊めてもらった夜に小屋版の老人に思うだけは酒がふるまえず、翌日も湯元への案内とそこで一夜酒を振る舞おうとの心積もりが叶わなかった。湯の湖の見える金精峠で老人と別れるとき、、、ここのラストわずか2、3ページが肝心な場面で、これ以上をここで書いてしまわないことにする。 抜粋4,「木枯紀行」 みなかみ紀行翌年の旅である。牧水38歳。富士五湖を巡り、後年山崎方代(※下記)の一首で知られる右左口村うばくちむらを超えた(*注)。初冬絶景の富士を見た。八ヶ岳東山麓の松原湖で木枯らしが湖面に落葉を吹き寄せるのを見ながら歌会がおこなわれた。千曲川源流を歩き、最後に土地の老人を案内に頼み、十文字峠を越えて栃本まで。あとは秩父で三峯山にも登り、東京を経て自宅の沼津に帰った。文中の白眉は長いながい十文字峠越えであろう。また、彼女にはおなじみの峠なのである。 爺さんの案内で十文字峠を越えて、秩父に出て東京に帰ることになった。初めからその予定だったのか、行きがかり上そうなったのかは分からないがこの行程には圧倒された。これは、今でも健脚向きの登山コースだからだ。 今日、この栃本(関所跡など保存あり)を経由する秩父往還を往来する人は希だ。彩甲斐街道という名のバイパスが直ぐ上手をトンネルで抜けてしまうのである。ぼくは10年ほど前の早春にこの栃本などは雪の降る中を訪ね印象深いが、十文字峠を越えたことが(まだ)ない。すぐ北側の三国峠はあの日航ジャンボ機が、自分が超えた数日後に墜落したので印象深い。どちらを超えても千曲川の同じ源流(川上村の秋山・梓山集落)に出る。高低差は秩父側のほうがずっと深い。 記述は以上です。 2009年の旅は アルバムページ(Z 野反湖、、、道中篇)に収録あり → こちらをクリック
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